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ファジーの法則

2013.04.10.20:24

●この世に“完全”はない

悩みやすい人、怒りっぽい人など、ネガティブな性格の人に多く見られる特徴があります。
それは、“完全主義者”だというです。
完全主義者とは、ものごとを“0か100か”“白か黒か”で考えたがる人のことです。

完全主義者は、
「あの人は良い人! あの人は悪い人!」
「この考えは正しい! あの考えは間違い!」
と、どちらか両極端で考えがちです。
発想がかたよっていて、中道で考えるのが苦手です。


しかしこの世に“完全”はありません。
100%完全に良い人、100%完全に悪い人、
100%正しい考え、100%間違った考え、
…といったものは存在しないのです。
どんな善人でも1%は間違ったところがありますし、どんな悪人でも1%は良いところがあるものです(ユダヤの法則)

完全主義者は、人がちょっと間違ったことをすると、その人の人格を“全て”否定してしまうところがあります。
例えば、有名人が犯罪を犯したとすると、「あいつはロクでもないやつだ」と、全人格を否定します。
ある政治家に愛人がいたとわかると、「愛人のいるやつが何をいう」と、その政治家の言うこと全く聞かなくなってしまいます。
ある本に間違ったかしょを見つけると、「この本は間違っている!」と書いてある内容を全否定してしまいます。

しかしこの世に完璧な人間はいません。
どんな聖人でも、たまには悪いことをしてしまうものです。
それなのに完全主義者は「悪いことをした=100%悪人だ」と極端に考えがちです。

しかしそういう完全主義者が、まったくもって完全ではないはずです。
これまでいろいろ間違いを犯してきたはずです。
それはこのブログを読まれているみなさんもそうだと思います。

では、みなさんは頭から爪先まで100%の悪人なのでしょうか?
朝から晩まで悪いことしか考えていない大悪人なのでしょうか?
そんなことはないと思います。
むしろ、できるだけ悪いことはせず、心のままに正しいことができるような人間になりたいと思っているはずです。

それなのに他人から、
「あんたは嘘をついた。どうしようもない大悪人だ。私は今後一切あんたのことを信用しない」
などと言われたらどうでしょうか?

「お前に私の何がわかる!?」
「私はそこまで悪い人間じゃない!」
「じゃあ、あんたは全く悪いことをしない100%の善人なのか!?」
と反論したくなるのではないでしょうか。

それはどんな犯罪を犯した人でも同じことです。

100%完全なる悪人というのはこの世に存在しません。
あなた自身がそうであるように、みんな自分の魂レベルなりに必死に生きているのです。
好きこのんで悪人になる人はいないのです。

※私は「完治しました」「全く悩んでいません」など、完全主義をにおわせる言葉を使うことがありますが、これはあくまで便宜上の言葉なので深くつっこまないでやってください^^;



●イデア

この世で完全なのは神だけです。
完全=神です。

それに対して、神の一部である、動物・植物・鉱物などの物質は、すべて“不完全”です。
私たち人間が不完全なのは言うまでもなく、植物も鉱物も、形がゆがんだり欠けていたり、どれひとつとして“完全”なものはありません。

完全に見える工業製品も、ナノレベルでみれば歪んでいます。
どんなにまっすぐなモノサシを作っても、それは完全にまっすぐではなく、ビミョーに歪んでいるのです。

この世の物質に“完全”なものはありません。
完全に丸いボールや、完全に四角い箱は存在しません。
原子も電子も、完全な球体ではありません。

完全な丸、完全な四角など、“完全”という概念は、人の頭のなかにだけあるものです。
だからこそ人は限りなく丸いボールや限りなく四角い箱が作れるのです。

このように、人の頭のなかにある完全なイメージのことを“イデア”といいます。
このイデアがすなわち“神”であると、哲学者プラトンは説いています。
私たちは、無意識のうちにイデアをお手本にして生きているのです。


物質だけでなく、言語・科学・思想などの“概念”も、神の一部が現れたものです。
だから、これらのものも、やはり不完全だといえます。
完全に正しい意見や思想というものは存在しませんし、人の気持を完全に伝えられる言葉も存在しません。
科学が完成する日も永遠にこないでしょう。



●パーセンテージで考える

0か100かの完全主義的思考から抜け出すのにはコツがあります。
それはなにごとも“パーセンテージ”で考えることです。

例えばこの世に、100%の悪人や100%の善人というものは存在しません。
ようはパーセンテージの問題です。

・聖人……ポジティブ率:99% ネガティブ率:1%
・一般人……ポジティブ率:40% ネガティブ率:60%
・凶悪犯……ポジティブ率:1% ネガティブ率:99%

このように、人の性質はパーセンテージで構成されています。
すべて悪に染まっているような人は存在しません。

人は無意識のうちに、
「アイツは犯罪者だから悪人だ。自分はボランティアしているから善人だ」
「あの人は神を信じてないからダメだ。自分は神を信じているから良い人だ」
と思いがちですが、神の目からみればドングリの背比べです。
ささいなパーセンテージの違いにすぎません。
一般人も犯罪者も大差ないと思います。



・盗人にも三分の理

「私は神を信じているのに、なんでこんなに不幸なんだろう」
「あの人は神を信じていないのに、何で幸せそうなんだろう」
という人も、やはり0か100かでものを考えています。

“信じる”ということも、“100%信じる・100%信じない”の2つに分けることはできません。
これもパーセンテージの問題です。

・聖人………信仰率:99%
・一般人……信仰率:20%
・凶悪犯……信仰率:1%

という感じで、どんな聖人でも100%神を信じきることはできませんし、どんな凶悪犯でも数%は神を信じているものです(限りなく0%に近い人もいますが…)
ときに凶悪犯が獄中で反省文を書いたり、神に祈ったりすることがあると思います。
そのような行為を見て「あんなのポーズだけだ」「神を信じているなら人殺しなんてするはずない」と非難する人がいますが、このような人は、「凶悪犯=100%悪人」という考えにハマっています。

こんなブログを書いている私も、ときに神を信頼できず、不安や恐怖を感じてしまうことがあります。
しかし人間である限り、100%神を信じられる日はこないでしょう(ユダヤの法則)
神を100%信じるということは、すなわち神そのものになるということです。


また、ものごとをパーセンテージで考えない人は
「わたし一人がゴミの分別をしたって意味はない。やるなら全員がやらないと」
「ちょっとくらい無農薬野菜を買ったって意味はない。やるなら全部無農薬にしないと」
という発想になりがちです。

しかし、パーセンテージで考える人は
「私のゴミは全体の0.0001%かもしれないけど、その0.0001%ぶんはゴミ業者の人を助けることができる」
「20%を無農薬にしたら、20%だけ土壌を救い、20%だけ体も健康になるだろう」
と柔軟に考えられます。
だから“なにもしない”という消極的な性格からぬけだし、身軽にアクションを起こせる積極的な人間になることができます。



・ヤ○ザも神を信じている

また、これを“知識率”で考えることもできます。
例えば、ヤ○ザはよく神社にいきます。
事務所には必ずといっていいほど神棚が祭ってあります。
つまりヤ○ザも神を信じているということです。

なのになぜ彼らは悪いことをしているのでしょうか?
それは信仰率が低いというのもありますが、その他にも“知識率”の低さがあげられます。
つまり彼らは神に関して、

・お賽銭をたくさんすれば味方してくれる
・真剣に拝めば、どんな悪いことにも力を貸してくれる

…ていどの知識しかないということです。

たしかに低級な自然霊にはそういう面もありますが、それが自然霊(神)のすべてではありません。
自然霊には高級なものから低級なものまでさまざまありますし、神の法則はもっと複雑で奥深いものです。

神に対する知識をパーセンテージで表すと…

・神………知識率:100%
・聖人……知識率:50%
・普通人…知識率:3%
・ヤ○ザ…知識率:3%

あくまでイメージですが、だいたいこんな感じではないでしょうか?
知識率でいえば、ヤ○ザと普通人に大した差はないと思います。
ただ、普通人はヤクザにくらべて性質がおとなしいので、大それたことをしないだけです。
だから普通人はいつなんどき犯罪や自殺をおかしてもおかしくない危うさがあります。
神に対する知識が少ないからです。
そうならないためには、色々なことをたくさん勉強して、神に関する知識をたくさん身につけることが大切だと思います。



・100%の愛はない

ケンカや裁判のとき、両者の言いぶんが食いちがっていることがよくあります。
私たちはそれを見て、「どちらかがウソをついている」と思ってしまいがちですが、そうは言い切れません。

例えば結婚詐欺において、
A「あなた、恋愛感情はなかったでしょう」
B「いや、恋愛感情はありました」
というやりとりがあると思います。
しかしこの場合、Bが完全に嘘をついているとは言えません。
恋愛感情も“100%ある・100%ない”と2つに分けることはできないからです。
これもパーセンテージの問題です。
5%くらいの恋愛感情なら、誰でも簡単に持てるものです。
道ですれ違う人や、テレビのタレントなどを見て、ちょっと「いいな」と思うことは誰にでもあると思います。
人は責められると、自分を正当化したくなりますから、詐欺師はその5%を大げさに思い返します。
そしてあたかも自分は100%愛していたかのように思い込んでしまいます。
そして心の底から「恋愛感情はありました」と言うのです。
このとき、95%はウソを言っていますが、5%は真実を言っています。

逆に100%、完全に人を愛せる人もいません。
ときにはムカッとしたり、愛を感じないときもあると思います。
だから、
「100%君を愛している」
という言葉のなかには、数%のウソがふくまれているということになります。
だから、「自分は本当にこの人を愛しているのだろうか?」「「あの愛は嘘だったのだろうか?」などという疑念はナンセンスなのです。
そもそも100%愛している状態などありえないのですから。
しかしそれは寂しいことではありません。
なぜなら私たちは100%愛にあふれた状態(=神)にむかって永遠に成長し続ける存在だからです。
人間力を上げれば上げるほど、どんどん愛のパーセンテージはアップしていきます。
自分の愛も、他人からの愛も、どんどん深く、大きくなっていきます。
初めから愛に満ち溢れた状態よりも、さまざまな経験を通して愛を深めていくほうが絶対にドラマチックです。



・嘘つきはいない

「悪気はなかった」
「故意じゃなかった」
「殺す気はなかった」

これらの言い訳も、100%嘘だとは言い切れません。
どんな悪人にも数パーセントの善なる心は潜んでいます。
たとえ人を殺す瞬間でも、
・殺したい気持ち……99,99%
・殺したくない気持ち……0.01%
くらいの配分にはなっていると思います。
そしていざ裁判になると、その0.01%が自分の本心であったかのように思い返してしまいます。
人は自分を正当化したい生き物です。
だから殺人犯はしばしば「殺意はありませんでした」と訴えます。
それはある意味、本心で言っているのです。



・自己嫌悪しやすい人

私にメールをくださる方のなかには、
「なかなか人見知りが直りません」
「頑張っていますが、なかなかうまく喋れるようになりません」
「どうしてもネガティブ思考してしまいます」

…私って本当にダメな人間です……

と、自己嫌悪される方がよくいらっしゃいます。

このようなタイプの人も、やはり“0か100か”の考えにとらわれています。
つまり、人見知りが100%完全に直らないと、それは“直っていない”ことなのだと思っているのです。
ひとつのミスもなく完璧な喋れるようにならないと、“うまく喋れていない”ということになってしまっているのです。

しかし、そのような思考回路考えでいる限り、永遠に人見知りは直りません。
口下手もネガティブ思考も、永遠に直ることはないでしょう。

なぜなら人は、どこまでも不完全な存在だからです(ユダヤの法則)
この世で完璧なのは神だけです。
人は神に向かって、永遠に成長し続ける存在なのです。


私がつねづね“おもしろいな~”と思っていたコメンテーターの方が、
「私は話がうまくない。おもしろく喋れない。コミュニケーション障害だ」というようなことをおっしゃっていました。
しかしその方はコメンテーターをされているくらいですから、とても話がお上手です。
テレビやラジオだけでなく、トークショーもしているくらいです。
もちろん、ときには完璧に話せないこともあるのでしょう。
しかしその方がコミュ障なら、人類の90%以上はコミ障ということになってしまうと思います。

このように、人は“完璧”を求めている限り、永遠に自己嫌悪からは逃れられません。
トークショーができるレベルになってすら、「口下手でコミュ障」ということになってしまうのです。

こんなブログを書いている私も、見方によってはいまだに人見知りだと思います。
私の性格が、人懐っこさ99%でできていたとても、残りの1%の部分に目を向ければ、とたんに“人見知りな人”になってしまいます。
つまり、「今日は笑顔が足りなかった」「自分から挨拶できなかった」と、失敗した部分ばかりに意識を集中すれば、他の部分はどんなに良くても、「私はまだまだ人見知りだ…」ということになってしまうのです。


どんなに友達の多い人でも、少しは人見知りの部分があります。
プロのお笑い芸人さんですら、うまく会話に入れていないことがあります。
それなのに私たちが“100%完璧”なコミュニケーションをのぞむなんて、ナンセンスなことではないでしょうか。

人は“100%”を求めている限り、永遠に自己嫌悪し続けなければなりません。
そうならないためには、0か100かの考えをやめて、もっと“ファジー”になることが大切です。

ファジーには“あいまい、ぼやけた”などの意味があります。
このキーワードは重要ですので、これからくわしく解説させていただきます。



●完全主義の人は2進法の世界で生きている

コンピューターはとても優秀です。
人にはできない複雑な計算を、いとも簡単にやってしまいます。
しかしコンピューターがいくら優秀でも、やはり人間のほうが一枚上手です。
なぜならコンピューターを創ったのは人間だからです。
コンピューターに人間は創れません。
想造力という点では、コンピューターは人間の足元にも及ばないのです(想造とは“想像”と“創造”を合わせた造語です)
なぜでしょうか?

それはコンピューターが、二進法の世界で生きているからです。

2進法とは、0と1だけの世界です。
コンピュータの思考は、0と1の2パターンしかありません。
どんな複雑な処理も、この2つ数字のみによっておこなわれています。

2進法は、計算処理には便利ですが、何かを想造したり、柔軟に思考することには不向きです。
なぜならすべてを“0か1”でしか考えられないからです。
0でも1でもない第3の答えを想造することが苦手です。
つまり弁証法的な思考が不得手だということです(弁証法 Ctrl+F検索)

これは人間に例えると“完全主義者”です。
完全主義者は、0か100かでもの考えたがります。
それ以外の中間的な答えを想造することが苦手です。
だからいつまでもグルグルと同じことで悩んだり怒ったりしています。


コンピューターは優秀ですが、自分で自分を進化(バージョンアップ)させることができません。
コンピューターを進化させているのは、コンピューター会社の人間です。

進化とは、より良い考え方を編み出すことです。
0でも1でもない、別の考え方を想造することです。
これができるのは、二進法的にものを考えない人間だけです。

人生の苦しみから抜け出すためには、新らしい自分に進化する必要があります。
進化するためには、0か1かの発想をやめて、もっと柔軟でファジーな思考をこころがけることが大切です。


※10進法や16進法のコンピューターもあるよ!というツッコミはなしで^^;
何進法でも“決まった枠組みでしかものを考えられない”という意味で、言わんとしていることは同じです。
柔軟に考えてくださいね(^^)



●ファジー力

コンピューターは0か1かの世界です。
それは計算作業には向いていますが、柔軟性の求められる作業には向きません。

例えば人間は、どの写真を見ても「これは○○さん」と認識することができます。
横を向いていようが、笑っていようが、これは○○さんだ、とわかります。
しかしコンピューターはこのような作業が苦手です。
顔の角度や目鼻の位置が少し変わっただけで、すぐに「これは○○さんではない」と思ってしまいます。
それは人間に比べて“ファジー力”が低いためです。

ファジー力とは、ものごとをあいまいに、柔軟に考える力のことです。

コンピューターは0か1かの完全主義ですから、あいまい(ファジー)にものを考えるのが苦手です。
かたや人の脳はファジーにできていますから、少し顔の向きがが変わっていても「これは、たぶん○○さんだな」と、だいたいの感覚で判断することができます。


そもそも宇宙は、0か1かで割り切れるほど単純なつくりにはなっていません。
0と1のあいだには、0.1、0.11……と、無限につらなる数字があります。
0.1と0.11のあいだにも、0.111、01111……と、さらに無限の数字がつらなっています。
これらの数字はいくらでも分割することができます。
永遠に割り切ることができません。
それは切れ目のない、“ぼんやり”とした雲のような数字の群れです。

また、物質を分解すると原子になりますよね。
原子をどんどん分解していくと、それは1個2個と数えられるモノではなく、“波動”になってしまいます。
もしくは、「この物質はこういう性質があり、ああいう性質があり…」という“概念”になってしまいます。
波動も概念も、つかみどころのない、あいまいでぼんやりしたものだと思います。

人間も、ひとり、ふたりと数えられるものではなく、本来はグループソウルというぼんやりした魂のかたまりです。
グループソウルも、一個、二個と数えられるものではなく、本来は神というぼんやりした光のかたまりです。
光も“ここからここまでが光!”と明確に言うことができない、あいまいでぼんやりしたものだと思います。

このように、世界はそもそもファジー(=あいまい・ぼんやり)につくられているのです。
ファジーこそがこの宇宙の本質なのです。
だから、0か100かでものを考えたり、白黒はっきりさせようとすると、人生に行きづまることになります。


この世のすべては不完全です(ユダヤの法則)
不完全をいいかえると、“あいまい・ファジー”という言葉になると思います。
つまりユダヤの法則は、“ファジーの法則”ともいえます。

しかし、「この世には、ただひとつ完全なものがあります。それは神です」

ということを私はこれまで何度も書いてきました。
しかしこの説明も完全には正しくありません。

神は完全ですが、それでもさらなる幸せを感じようと、日々成長を続けています。
いまもなお、さらに賢く、幸せになっていこうとしているのです。
つまり神は完全であり、同時に不完全な存在だといえます。

わかりますでしょうか?
なんともファジーな説明です。
「完全であり不完全? そんなあいまいな説明うけいれられない! もっと科学的にハッキリ説明して!」
という人は、人生に悩みやすい人だと思います。

この世界はそもそもハッキリ割り切れるようにはできていません。
ファジーにものを考えられないと、いつまでも悩み苦しみ続けることになってしまいます。


基本的に、人間力とファジー力は比例します。
人間力の高い人ほどファジー力も高く、低い人ほどファジー力も低い傾向にあります。

ファジー力の低い人は
「あの枕じゃないと寝られない!」
「この服じゃないと出かけたくない!」
「恋人はあの人じゃなきゃ嫌だ!」
と、柔軟性にかけるところがあります。
特定のものにこだわり、他のものを受け入れられません。
そのせいで自分が苦しむのはもちろん、周りの人にも嫌な思いをさせています。

いっぽうファジー力の高い人は、
「別に他の枕でもいい」
「別に他の服でもかまわない」
「あの人だけが男じゃない。もっといい男をみつけよう」
と、柔軟に対応することができます。
だからストレスを感じにくく、いつもハッピーでいられます。

ファジー力の低い事務員さんは
「うちの会社はこういう決まりです。そういった要望はお受けできません」
とコンピューター的な対応をします。

いっぽうファジー力の高い事務員さんは、たとえ会社の決まりでも、つねに例外をもうけ、柔軟に対応してくれます。


ファジー力は、魂の成長と比例します。
だから子どものファジー力は、大人よりも低い傾向にあります。
また動物のファジー力も、人間に比べて低い傾向にあります。

基本的に子どもや動物の行動は反射的です。
“0”という刺激に対して“1”という反応をするという、決まったパターンで動いています。

「好物が出された」→「食べる」
「嫌いなものが出された」→「食べない」
「好きな人がいた」→「なつく」
「嫌いな人がいた」→「逃げる」
…という感じです。

「本当はピーマンは食べたくないけど、今日はお客さんの家に呼ばれているんだからしょうがない。ピーマンを食べよう」
と、柔軟に対応できる幼児はマレだと思います。
「アイツは嫌いで、本当は近づきたくないけど、たまにはギブギブの精神でいってみよう」
と、ファジーな対応をする猫もあまりいないと思います。



●失敗大歓迎!

コンピューターは絶対にミスをしません。
ミスするとしたら、人間の設計ミスです。
いっぽう人の脳はファジーですから、よくミスをします。
記憶もあいまいで、やることなすこと失敗だらけです。

かといって人間がコンピューターより劣っているかといえばそうではありません。
さきほど書かせていただいたように、想造力という点ではファジー思考のほうがよいのです。


脳は“消去法で成長する”システムになっています。
色々な方法を試し、「このやり方は違う」「この方法はダメ」と“失敗した方法”を消去していくことでどんどん成長していきます。

コンピューターは失敗しない代わりに成長もしません。
人は失敗しますが、そのかわりに成長することができます。
失敗のないところに成長はありません。
失敗しないと改善点がわからないため、成長のしようがないからです。
つまり失敗と成長はワンセットだということです。
このことが分かれば、「また失敗してしまった。私はダメ人間だ」と自己嫌悪したり、人の失敗にいちいち目くじらを立てたりすることが、いかにナンセンスかがわかります。

そもそも人類の歴史は、たえまない失敗の歴史です。
科学の進歩は、無数の失敗によってなりたっています。
エジソンですら、電球の素材を発見するまでに6000回も失敗したといいます。


また、コンピューターの世界は無味無臭です。
失敗がない代わりに、成長する喜びや感動がありません。
あれこれ試行錯誤することがないので、興奮も達成感も味わえません。
このような世界に、だれが生きていたいと思うでしょうか?

私たちが生きているのは、失敗のない完璧な人生をおくるためではありません。
さまざまな経験を通して、人生を味わい、感動するために生きているのです。
これこそ私たちがこのバーチャルゲームを作った目的だといえます。

ゲームとは、そもそも“試行錯誤を楽しむもの”です。
試行錯誤とは、ああでもないこうでもないと、さまざまな失敗を重ねながらゴールをめざすことです。
この試行錯誤こそがゲームの醍醐味といえます。
試行錯誤がまったく必要でない簡単なゲームなんで、つまらなくて誰もやろうと思いませんよね。
失敗と試行錯誤にエキサイトすることこそが、人生の目的なのです。


とはいえ、必ず失敗しなければならないというわけではありません。
私たちは元々ひとつの存在です。
他人の経験は、自分自身の経験でもあります。
自分がわざわざ失敗しなくても、人の失敗から学ぶことで余計な失敗をしなくてすむようになります。
そのためには、人の失敗をひとごとと思わず、いつも自分のこととして置きかえることが大切です。
そうすると、自分の失敗が減らせるだけでなく、人のやることにいちいち腹も立たなくなります。

例えば誰かにイヤミを言われたとき、「これで私は人にイヤミを言うという失敗をせずにすむ。事前に失敗を防いでくれてありがとう」と思えるようになります。
無愛想にされたときも、「これで私は人に無愛想にするという失敗をせずにすむ。事前に失敗を防いでくれてありがとう」と思えるようになります。
 
失敗は身近にいる人だけからじゃなく、テレビ、ニュース、本などからも学べます。
政治家、芸能人、犯罪者など、どんなに自分と立場が違う人でも、自分のばあいに置きかえて応用することは可能です。
人を見下したり、腹が立ちそうになったときは、事前にその人の失敗から学ばせてもらえることに感謝しましょう。



●ポジティブなファジーとネガティブなファジー
ファジーという言葉には使いようによって、ポジティブにもネガティブにもなってしまう言葉です。

ポジティブに使うと、“なにごとも0か100かで考えず、柔軟に、寛容に生きる”という意味になります。
ネガティブに使うと、“なにごともいいかげんにして、テキトーにだらしなく生きる”という意味になります。

どちらもファジーという言葉につながりますが、この2つはまったく別のものです。

ネガティブなファジーの代表として、天下り、年金問題、国の借金などがあげられると思います。

完璧にポジティブなファジーのみに生きるのは不可能ですが、できるだけネガティブなファジーにならないように注意してくださいね。
 

※ここに書かせていただいたコンピューターは古いタイプのもので、現代では多くのコンピューターに“ファジー理論”が取り入れられ、あるていどファジーな思考ができるようになっています。
 ここまでコンピューターのことをずいぶん悪く書いてしまいましたが、私は決してコンピューターが嫌いなわけではありません。
 むしろ、文句も言わず淡々と業務をこなしてくれる、超優秀なパートナーだと思っています。
 コンピューターにはとても感謝しています(^^ゞ



参考文献:記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方  池谷 裕二
     だれでも天才になれる脳の仕組みと科学的勉強法 池谷 裕二



●完全主義者の例

・嫌いな人が多い人

完全主義者は、苦手な人や嫌いな人が多く、そのせいで辛い人生をおくりがちです。
学校へ行けば「あの子が嫌い」
会社へ行けば「あの上司が嫌い」と、いつも辛い思いをしています。

それは無意識のうちに、
「あの子は私の悪口を言う。だから100%悪い人間だ」
「あの上司はヒイキをする。だから100%悪い人間だ」
と、0か100かで考えてしまっているからです。

しかしこの世に100%悪い人間はいません。
どんな人にも数パーセントは良い部分があります。
しかし完全主義者は、その数パーセントには目もくれず、他の悪い部分に意識の100%を集中しています。
だからいつもムカムカイライラ、辛い人生をおくっています。

このようなことにならないためには、例え1%しかなくても、その人物の良い部分に意識を集中することです。
1%の良い部分に、意識の100%を集中するのです。

とはいえ、ここでも“100”や“完全”にこだわってはいけません。
60%でも70%でも、自分にできる範囲で意識を集中していくことが大切です。



・人を見下しやすい人

また、完全主義者は人を見下しやすいところがあります。

「あの連続殺人犯はどうしようもない悪人だ。救いようがない」
「天下り官僚は、私利私欲にまみれたどうしようもないヤツらだ」
「アイツは悪人なのに、私より幸せそうにしているなんて納得できない。この世には神も仏もない」
…という感じです。

このような考え方は波動が悪いので、悪い出来事を引き寄せてしまいます。
完全主義者で、心から幸せな人生をおくっている人はいないでしょう。

人を見下しやすい人も、やはり
「天下り官僚は100%悪人だ」
「凶悪犯は100%の悪人だ」
と無意識のうちに思ってしまっています。

頭では100%の悪人などいないことは分かっていても、脳が反射的に“0か100か”で考えてしまっているのです。
これは単なる脳のクセなので、トレーニングで治すことができます(性格は変えられる



・言い争いの多い人

例えば人とケンカしたとき、つい「私が正しい! あっちが間違っている!」と思ってしまいがちです。
そして、色々な人の意見を聞いてまわったり、答えのでない問題をグルグル考えて、いつまでも嫌な気分を味わっています。
しかしこのようなばあい、どちらかの意見が100%正しいということはまずありません。

例えば、ケンカしているAさんとBさんどちらが正しいか、全世界で投票したとします。
そうすると、おそらく票は2つに割れるはずです。
どちらかが100%の票を集めることはまずないでしょう。

もしかしたら、Aさんの得票が99%で、Bさんが1%かもしれません。
しかし、どちらかが100%の支持をえることはないと思います。

なぜならこの世に“100%完全に正しい答え”などというものは存在しないからです。

もし誰かとケンカしそうになったとき、
「全世界で投票したら、自分には何%くらい票が入るだろう」
と考えてみてください。
そうすると、「相手にも30%くらいは票が入るかも…」という思いにいたるはずです。

100%完全とはいえない意見を人に押し付けるのは横暴ではないでしょうか。

人は神からそれぞれ違った個性を与えられています。
だから自ずと考え方も違います。
なのに自分の個性や考え方を押し付けるのは傲慢なことだと思います。

たとえ相手の支持率が1%しかなかったとしても、それを圧殺してよいということにはなりません。
少数意見だからといってそれを殺そうとするのは、少数民族だからといって彼らを無視するのと同じくらい非人道的なことだと思います。

また、自分の意見が100%完全ではないとわかれば、ケンカしてまで押し通す必要はないはずです。
大きな目で見れば、どちらの意見が採用されても、結果にそれほど差はないことに気がつくと思います。

つまり、完全主義者はどちらでも良いことをムキになって押し通そうとしているだけだということです。
そこにあるのは理性でも正義でもなく、ただの変なプライドです。
変なプライドにとらわれるような人の意見が、良い結果を招くとは思えません。

ホンジャマカの石塚さんにいたっては、100%自分が正しいと思っても自分から折れるというようなことをおっしゃっていました。
もちろん、ときには自分の意見を主張することも大事ですが、私は基本的に石塚さんのような心意気で人と接しています。
それで困ったことはなんら起こっていませんし、むしろことごとく良い結果になっています

※ここで、「じゃあ、相手がどんな危険な考えを持っていても、つねに賛成しなければならないの?」というような人は、まだ0か100かの考えにとらわれています。


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