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納得の法則(キャラクターの法則/演劇の法則)

2013.07.25.20:14

○納得すると幸せを感じる

人は“納得“できないと苦しくなります。
例えば、
「何で私だけこんなに不幸なの!?」
「私は悪くないのになんで怒られなきゃならないの!?」
「あいつは悪人なのに、なんで幸せそうにしているの?」
…などの苦しみには、「納得できない!」という思いがあるはずです。

しかしこのような苦しみは、カルマの法則など宇宙のしくみを理解するにしたがって、だんだんなくなっていきます。
なぜなら“納得”できるようになるからです。

「なんで私だけこんなに不幸なの?納得できない!」
という人も、いろいろと勉強していくうちに、
「だから私は不幸だったのか…」
と、納得できるようになります。
そして納得できたとたん、フッと心が楽になります。

この世は謎解きゲームです。
“納得した”とは“謎が解けた”ということです。
より一歩、真実(=神)に近づいたということです。
私たちは神に近づくほど幸せになるようプログラムされています。
だから心が楽になるのです。

この世は自分でつくったバーチャルゲームです。
だから必ず自分の納得のいくシステムになっています。
自分で納得できない理不尽なゲームをつくって、わざわざ苦しみたい人なんていませんよね。
自分で納得できない変なナゾナゾをつくって、イライラしたい人もいないと思います。

ただ、簡単すぎるナゾナゾはつまりません。
だから私たちは、ちょっと難しいナゾをつくって、悩むことにエキサイトしているのです。



○真実はわからない

科学や論理の世界では、“観測”によって真実をみちびきだします。
なんども観測して同じ結果がえられれば、いちおうそれが真実ということになります。
観測から真実をみちびく方法を帰納法といい、科学の基礎になっています。
しかし厳密に言うと、それは真実ではありません。

たとえば、レモン汁を青いリトマス紙につけると赤色になります。
今まで100億回?くらい観測したと思いますが、100%の確率で赤色になるようです。
だからレモン汁は酸性である、ということが真実のように思われています。
しかしそれは限りなく酸性の可能性が高いというだけで、100%酸性というわけではありません。
100億1回目も赤色になるという保証はどこにもないのです。
たとえば、今まで実験に使われてきたリトマス紙が、たまたまぜんぶ不良品だった可能性があります。
もともとレモン汁はアルカリ性なのに、未知の物質Xが一時的にを酸性にしている可能性もあります。
そもそも私たちは宇宙人に集団催眠をかけられていて、青が赤に見えるように洗脳されている可能性もあります。
もちろん、そのような可能性は限りなくゼロに近いのですが、ゼロではありません。
つまり、科学や論理で「100%真実だ!」と証明することは不可能なのです。

むかしは、
「科学が発達すれば、人類はいつか真実にたどりつける」
「論理をつみかさねれば、いつかは真実にたどりつける」
と考えられていました。
しかし現代では、不確定性定理、カオス理論などから
「科学や論理では真実にたどりつけない」
という結論にいたっています。

天気予報では、
「だいたい○時から○時のあいだに、だいたい○○の地域で、だいたい○%の確率で、雨や雪になるでしょう」
というあいまいな予報をします。
それは100%カンペキな予測ができないからです。

以前バタフライ効果について書かせていただきました。
バタフライ効果とは、蝶のちいさなはばたきが、のちのち大嵐につながるという現象のことです。
つまり、ほんのわずかの差が、巨大な差に発展してしまうということです。
だから、予報コンピューターに入力する情報が、0.00001違っているだけで、その後の予測が大きく異なってしまいます。

カンペキな予測をするためには、現状をカンペキに知ることが必要です。
全宇宙の状態を、0.0000001の誤差もなく、予測コンピューターに入力する必要があります。
わずかでも値がズレていたら、結果が大きく変わってしまうからです。
しかしそのようなことは、人間には不可能ですよね。
このように、わずかの差が大きな差に繋がってしまうような複雑は計算をあつかう学問を“カオス理論”といいます。
カオス理論は「人はカンペキに真実を知ることは不可能である」という前提のもとになりたっています。

「いや、ただひとつ100%の真実がある。それは数学だ!」
と言いたところですが、“不完全性定理”というものによって、数学も100%真実ではないことが明らかになっています。
これは、数学ほど安心できるものはない(Ctrl+F検索)と矛盾しているようですが、そもそも宇宙はファジーな構造になっています。
ファジーの法則のなかで、数学は限りなく真実に近い概念だといえます。



○納得センサー

神(真実)の一部である人間が、すべての真実を知ることは不可能です。
しかし限りなく真実に近づいていくことはできます。
そのとき、より真実に近い方向をしめすセンサーが“納得”という感覚です。

カルマの法則がある世界とない世界、どちらが真実か証明することはできません。
にもかかわらずブログ読者のかたの多くは、カルマのある世界を真実だと感じていらっしゃるようです。
なぜでしょうか?
それは、カルマのある世界のほうが“納得”できるからだと思います。
「この世にはカルマの法則などない。
 あなたが不幸なのはたまたま運が悪いだけだ。
 この世はたまたまや偶然がある。
 だからあなたがどんなに努力しても不幸から抜け出せるとはかぎらない」
という説明よりも、
「この世はカルマの法則(原因と結果の法則)があって、たまたま不幸になることはない。
 不幸になるようなカルマ(原因)を作らなければ不幸になることはない。
 つまり人は自分の行動しだいで幸せにも不幸にもなれる。
 自分で自分の人生を切り開くことができる」
 という説明のほうが“納得”できるからだと思います。
それより深い理由はないはずです。


人はそれぞれ自分なりの真実をもっています。
それは、
「キリスト教は真実だ」
「イスラム教は真実だ」
「A健康法は体にいい」
「B健康法のほうが体にいい」
などさまざまです。
しかしそれらは自分のオリジナルの考えではありません。
いろんな意見のなかから“納得”のいくものをチョイスして、自分なりの真実にしているはずです。

どんな一流の学者でも、さいごに頼るのは“納得”という感覚です。
どんなに論理思考をつみかさねても、さいごは“納得”というアナログな感覚で判断しています。
たとえばガリレオは、なぜ天動説ではなく地動説が真実だと思ったのでしょうか?
それは観測によってで“地球が太陽のまわりをまわっている”という証拠がたくさん出たからです。
では、なぜ証拠がたくさん出たら真実だと思ったのでしょうか?
それは、そちらの方が納得できるからです。
では、なぜ納得のできるほうが真実だと思ったのでしょうか?
もう、そこには理由がありません。
ただ納得できるから真実だと思ったのであり、それより深い理由はないはずです。

私たちはなぜ“1+1=2”が真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それより深い理由はありません。

私たちはなぜ太陽が東からのぼることを真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それより深い理由はありません。

「納得もなにも、現実にそうじゃないか!」
という人は、なぜ“現実にそう”なら真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それ以上、理由を追求することはできません。

つまり“納得”は、なにが真実かを示す、もっとも根源的な感覚だということです。




○納得できることは変わっていく

「むかしは納得していたが、今は納得できなくなった」
「以前は納得していたが、今は間違いだと感じる」
ということもあると思います。
しかしこの世に間違いはありません。
ただ、それにふくまれる真実の%が違うだけです。
たとえば古代、リーダーがいない状態では大きな工事がおこなえませんので、自然に「リーダーをつくろう」という考えがうかびます。
みんなその考えに“納得”して、一人のリーダーが集団をひきいる独裁制がはじまります。
はじめのうちは優秀なリーダーが選ばれてうまくいくのですが、そのうちアホなリーダーが出てきてうまくいかなくなります。
そこで、「権力を数人に分けよう(貴族制)」というアイデアが出て、みんながそれに“納得”します。
しかしそのうち、派閥争いなどでうまくいかなくなります。
そこで「みんなで権力を分けよう(民主制)」というアイデアが出て、みんながそれに“納得”します。
しかし民主制も、衆愚政治におちいってうまくいかなくなります。
そしてまた「こうしたらいいんないか」というアイデアが生まれ、みんながそれに納得し……
というように、ものごとはより良い方向(=真実)にむかって進化していくものです。
独裁制も貴族制も間違いではありません。
ただ民主制よりも、やや真実から遠いだけです。
すべてはより良い方向にむかうための、必要なステップなのです。



○納得の法則しか存在しない  

この世は自分の意識がつくりだしたものです。だから、
“自分の納得のいくことしか起こらない”
これが納得の法則です。
納得のいかない世界をつくってわざわざ苦しみたい人はいないはずです。
この世はすべて自分の納得のいくようになっています。

万有引力の法則、質量保存の法則など、宇宙にはさまざまな法則がありますが、すべての法則に共通していることがあります。
それは“納得”できるということです。
納得できないものは法則になりえません。
納得のできるもののみに“法則”と名がつけられます。
つまり、法則といえばすべて“納得の法則”だということができます。
カルマの法則も正負の法則も、すべて納得の法則です。

“法則”とついていなくても、数学・芸術・ヒト・石・テレビ・喜ぶ・考える・概念……などなど、名前のあるものはすべて法則です。
数学とは○○である。
テレビとは○○である。
概念とは○○である。
などと辞書に書いてありますが、すなわちそれが、その名前のもつ法則です。
だからこれらもすべて納得の法則です。
ギブギブ、今に生きる、一分以上考えないなど、このブロブのタイトルもいわば納得の法則です。

つまりこの世はすべて“納得の法則”でできているということです。

この世には納得の法則がひとつあるだけで、他の法則は存在しません。
たとえば“悪いことをした人には悪いことがおこる(カルマの法則)”などというものは存在しません。
神が「悪いことをした人に悪いことがおこれば納得がいく」と思うからそういう現象がおきているだけです。
“悪いことをした人には必ず悪いことがおこる”という絶対の法則があるわけではありません。
順番でいえば、「悪いことをした人に悪いことがおこれば納得がいく」という神の思いが先にあり、その後に“悪いことをした人には悪いことがおこる”という現象が生まれるのです。
だからもし神(自分)が、「悪いことをした人に悪いことがおこらなくても納得がいく」と心の底から思えたら、そのとおりになります。
そのとき、カルマの法則はなくなります。

同じように“不幸のあとには幸せがくる(正負の法則)”などというものは存在しません。
神が「不幸があっても、そのあとにに幸せがくれば納得できる」と思うからそうなっているだけです。
だからもし神(自分)が、「幸せのあとに幸せがきても納得がいく」と心の底から思えたら、そのとおりになります。
そのときその人は、正負の法則を超越したといえます。



○納得の法則を最優先にする

この世のすべては、神の思いによってつくられています。
ヒトも石も概念もカルマの法則も、神の思いによってつくられたものです。
つまり、はじめに神の思いがあって、その次に法則がうまれるのです。
この順番は大事です。
これを逆にするとエライことになります。
逆にするとは、法則を一番にして、神(自分)の思いを二番にするということです。
それは真実から外れた行為です。
そんなことをすると心が苦しくなり、人生に苦しむことになります。

しかし以前の私はよくそのようなことをやっていました。
たとえば私は何か悪いことをしてしまったとき、
「また悪いカルマをつくってしまった」
「なにか悪いことおこるにちがいない」
と恐れ、苦しむことがありました。
これは、法則を第一に考えて、神(自分)の思いを二の次にしていたからです。

“悪いことをする”ことは、いわゆる“失敗”ですよね。
人であるかぎり誰でも失敗します。
どんな聖人でも、完璧な人はいません。
それは神がそのような世界をつくっているからです(ファジーの法則
それなのに、失敗するたびにいちいち罰(悪いカルマ)をあたえられるようなシステムに、はたして納得できるでしょうか?
私は納得できません。
「こんな理不尽なシステムを神(自分)がつくるはずがない!」
と思います。

しかしこの世に偶然はありません。
すべて厳密な法則によって成り立っています。
だからこそ安心できるのです。
ここで、「今回の失敗だけなかったことに…」などとすれば、安心の世界が根底からくつがえってしまいます。
しかし、いっぽうで私の中には「カルマの法則には納得できない」という思いもあります。
この矛盾をどうすればよいのでしょうか?

ここで納得の法則の出番です。

この世は自分の思いがつくりだしたものだから“自分の納得のいくことしか起こらない”
これが納得の法則です。
ならば、自分が納得できるような状況をつくりだせばよいのです。

たとえば、あなたが何かに失敗して、人に迷惑をかけてしまったとします。
しかしあなたは失敗の原因をたいして分析もせず、ただ落ちこむだけだったとします。
すると当然、あなたは次もまた同じような失敗をして、人に迷惑をかけてしまいます。
あまつさえ“落ち込む”という行為で波動汚染までするしまつです。
はたして神はこのような状況に納得できるでしょうか?
おそらくできないと思います。
あなたのことを何とかしようと、なにかしら働きかけるはずです。
その働きかけが、いわゆる“カルマの法則”なのです。
カルマの法則で、自分のかけた迷惑がどんどん返ってくれば、あなたもいつしか
「こんなつらい人生もうイヤだ! どうすればこのつらさから抜け出せるんだろう?」
と、いろいろ考えるようになります。

またあるとき、あなたは人に対して悪意ある嫌がらせをしてしまったとします。
しかしあなたはその後、なぜ自分が悪意をもつにいたったのかを論理的に分析し、
「自分のこういう考えかたがマズかったんだ」と原因をつきとめ、
「次におなじシチュエーションになったらこうしよう」「人間力を鍛えるために本を読もう」など対策を立て、
「○○さんには悪いことをしたなあ」と謝罪の心を持ち、
「○○さんは神の化身だ。私の人間力を高めてくださってありがとうございます」と感謝し、
「○○さんに迷惑をかけた3倍くらい、なにか良いことをしよう」と失敗を活かして徳をつみ(三倍返しCtrl+F検索)
「人間は完全に平等だ。どうせ人はみな同じ失敗をするんだから落ち込む必要はない」と論理的思考力を鍛え、
「落ちこむヒマがあったら、一分一秒、今に生きよう」と思い、
「わたしは愛に生きます。みんなの幸せのために生きていきます!」と、心で唱え続けたとします。
はたして神はあなたに“働きかけ”をする必要を感じるでしょうか?
悪いカルマを負わせる必要を感じるでしょうか?
おそらく感じないと思います。
神(=あなた)はあなたの行為に“納得”して、これ以上あなたに何かする必要を感じないはずです。
つまりこのとき、あなたは「悪いことをした人に悪いことがおこらなくても納得がいく」と思えたわけです。
だからあなたに悪いカルマが返ることはありません。
このときカルマの法則を超越したといえます。

私が不幸だったころ、「私は人間的にまだまだだ」と、自分に納得していませんでした。
しかし今は「今の自分で完璧だ(Ctrl+F検索)」と、自分に納得しています。
だから自分に試練をあたえる必要がないので、いわゆる神の試練(=つらいこと)は起きません。


また以前のわたしは、なにか良いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。いつまでも良いことはつづかない。次は悪いことがくる」
と恐れていました。
これも法則を第一に考えて、神の思いを二の次にしていたからです。

正負の法則とは、“バランスの法則 + リズムの法則”のことです。
太陽が上れば沈むように、波動が上下のリスムをえがくように、人生にも上下のリズムがあるというのが正負の法則です。
磁石にプラス極とマイナス極があるように、甘いモノを食べれば虫歯になるように、贅沢をすればビンボーになるように、人生にも正負のバランスがあるというのが正負の法則です。

たしかに悪いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。悪いことのあとには良いことがくるんだ」
と思うことで心が救われます。
しかし良いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。つぎは絶対に悪いことがくる…」
と思うと心が苦しくなります。

“良いことのあとには、必ず悪いことがおきて苦しまなければならない”

はたしてみなさんはこのような世界に納得できるでしょうか?
私はできません。
「そんなイヤな世界を神(自分)がつくるはずがない」
と思います。
しかしこの世には、たしかにバランスの法則やリズムの法則があります。
「悪いことのあとには良いことがくる」と思うことで救われるのも事実です。
ここで「良いことのあとには、良いことがくる」などとすれば、そのような世界を根底から否定してしまうことになります。
このジレンマをどうすれば解決できるのでしょうか?
やはりここでも納得の法則です。

たとえば、あなたが仕事で成功し、幸せの絶頂にいたとします。
そのときあなたは優越感で、得意になっていたとします。
浮かれポンチになり、まわりにイヤな印象をあたえていたとします。
はたして神はそんな状況に納得できるでしょうか?
おそらくできないと思います。
あなたのことを何とかしようと、なにかしら働きかけるはずです。
その働きかけが、いわゆる“正負の法則”です。
次の仕事で失敗してイタいめをみれば、あなたは心を改めることができます。

またあるとき、あなたは仕事で成功し、幸せの絶頂にいたとします。
しかしあなたは優越感を感じても、「これは反射だから当たり前の感情だ」と論理的に分析し、
それを活かして「謙虚な心、美しい心…」と徳をつみ、
「おもわず浮かれポンチになってしまった。みんなにイヤな思いをさせてしまって申しわけなかったな」と謝罪の心を持ち、
「次に同じシチュエーションになったときは、こういう態度をとろう」と対策を立て、
「イヤな思いをさせたぶん、3倍くらい好感をあたえるぞ!」と三倍返しで徳をつみ、
「この成功は自分の力だけではなく、みんな(=神様)のおかげです。ありがとうございます」と感謝し、
「人の能力は完全に平等なんだから、優越感を感じるのは論理的におかしなことだ」と思考力を鍛え、
「あ~、人生ゲームはおもしろいな~」と、今を楽しみ
「わたしは愛に生きます。みんなの幸せのために生きていきます!」と、心で唱え続けたとします。
はたして神はあなたに、正負の法則でイタイめをみさせる必要を感じるでしょうか?
おそらく感じないと思います。
それは神(=あなた)があなたの行為に納得したからです。
このときあなたは「幸せのあとに不幸がこなくても納得がいく」と思えたわけです。
だからあなたに正負の法則がはたらくことはありません。



○人生楽しかありゃしない♪

納得の法則に気づいていなかったころの私の人生は“人生楽ありゃ苦もあるさ”でした。
良いことがあれば悪いことがあり、良いことがあれば悪いことがあり……のくりかえしでした。
しかし納得の法則に気づいてからは、“人生楽しかありゃしない♪”の状態になっています。
にわかに自分でも信じがたい状況です。
まさに“今が天国”という感じです。

正直なところ、このような人生がありえるとは思っていませんでした。
人生とは、山あり谷あり、いいこともあれば悪いこともあるものだと思っていました。
正負の法則が、宇宙の真理だと思っていました。
永遠に幸せがつづくなんてムシのいいことはありえないと思っていました。

しかしそれは神のしくんだトラップだったようです。
人類のほとんどが、長年このトラップにひっかかり続けてきたのではないでしょうか?

しかし近年のアセンション(次元上昇)にともない、多くの魂がこのトラップに気づきはじめたようです。
ひとむかし前まで、
“苦労は買ってでもしろ”
“きびしい修行をしなければ救われない”
“金持ちが天国に入るのは針の穴を通るより難しい”
という風潮だったのが、最近は、
“もっと楽しくワクワク生きたほうが良い”
という風潮になってきているのは、みなさんも感じていらっしゃるのではないでしょうか?

むかしは、法律、思想、身分制度など、あらゆるものが“きびしい”傾向にありました。
ちかごろ体罰が騒がれていますが、むかしの体罰は今の比ではありません。
古代スパルタでは、教育として食事を与えなかったりムチで打ったりしていました。
日本でも、無礼者は殺してよいという法律がありました(切り捨て御免)
宗教では、きびしい修行をしたり戒律を守らないと幸せになれないとされていました。
むかしの学生は、四当五落(五時間寝れば試験に落ちる)といって、睡眠時間をけずって勉強するのが良いとされていました。
社会人は私生活や健康を犠牲にして働くことが美徳だという風潮がありました。
つまり人類は、
「そうやって苦しまないと幸せになれない(なぜならこの世は正負の法則でできているから)」と思いこんでいたのです。
しかし今はどうでしょうか?
むかしのようなきびしい身分制度や上下関係がなくても、別に困ったことはありません。
スパルタ教育や切り捨てごめんがないからといって、別に困ったことはありません。
わたしは滝行や断食をしたことはありませんが、お坊さんより不幸だとは思えません。
いまの学生は、睡眠をけずるよりも、ちゃんと寝たほうが勉強効率がよいと言われています。
社会では、私生活や健康を犠牲にしてまで働くという風潮はめっきり影をひそめました。
そのような人は、むしろ「どうなの?」と思われるくらいです。

つまり「苦しまないと幸せになれない」というのは、人類の大いなるカン違いだということです。

納税日本一の斎藤一人さんも、
「良いことのあとにはもっと良いことがある」
「今日がどんないい日でも、明日には勝てない」
とおっしゃっています。
これは気やすめでもなんでもなく、まぎれもない真実です。

ただ“人生楽ありゃ苦もあるさ”のシステムに納得している方は、“人生楽ありゃ苦もあるさの世界”に住むことになります。
この世は自分の納得のできるシステムになるからです。

わたしが一年365日しあわせなのは、心がタフだからという面もあります。
人が不幸に感じることでも不幸に感じないからという面もあります。
しかし、それだけではありません。
正負の法則より、納得の法則のほうを優先すると、現実に不幸なことがほとんど起こらなくなります。
客観的に見ても、「わたしはなんて運がいいんだ!」と思うことばかりです。

たしかに正負の法則は存在します。
だからといって“幸せとのあとには不幸がくる”ということにはならないと思います。
正負の法則とは“バランスの法則 + リズムの法則”のことです。
それなら“平穏”と“超幸せ”でバランスをとってもいいと思います。
“幸せ”と“超幸せ”でリズムをとってもいいと思います。
“幸せのあとには不幸じゃなくて超幸せがくる”でもいいはずです。
実際、わたしはそのような人生をおくっています。

また、この世には慣性の法則があります。
これは“余計な力をくわえないかぎり、同じ状態は永遠につづく”という法則です。
月が落ちることなく地球のまわりをまわっているのは慣性の法則があるからです。
宇宙にはたくさんの法則があるのに、わざわざ正負の法則だけを人生にあてはめることはありません。
慣性の法則をあてはめて、
“余計な力(ネガティブな波動)をくわえないかぎり、幸せは永遠につづく”
と考えてもいいはずです。
その証拠に、“神の愛”には正負の法則があてはまりません。
神の愛は永遠不滅です。

この説明を読んで“納得”された方は、今日からでも“人生楽しかありゃしない”になってしまうでしょう♪



●納得の法則=キャラクターの法則

納得の法則は、いわばキャラクターの法則です。
私はネガティブになりそうなとき、すかさず人の幸せを願います。
神に感謝し、愛のことばで心を満たします。
なぜなら、そのようなキャラが不幸になるストーリーは想像(納得)できないからです。
そのようなキャラに天罰をくだす神は想像(納得)できないからです。

私がいつも幸せなのは、きびしい修行をしたからでも、徳が満ちているからでもありません。
「私のようなキャラが不幸になるはずがない」と、自分で納得しているからです。
「こんなキャラは、ドラマのなかでは絶対しあわせになるよね」と、自分で納得しているからです。
ただそれだけです。

もしかしたら、「そんなキャラになるのは無理」と思われたかもしれません。
しかしそんなことはありません。
なぜなら神様は「ムリしろ!」なんて言わないからです。
人に無理じいする神様なんて、納得できませんよね。
だからそんな神様は存在しません。
納得できる神様とは、
“その人のできる範囲で、精一杯のことをしていれば、OKをくれる神様”
だと思います。
だからこの世は、そのような神様に支配されています。

しかし、人は頭っから
「わたしにはムリだ! できない!」
と、思いこむクセがあります。
だから、たいていのばあい、できることすらやっていません。
そして、そんな自分に納得がいかないので、罰(のようなもの)が降りかかってきてしまいます。

わたしたちは自分でハードルを上げすぎなのです。
もしくは“やる or やらない”と、0か100かで考えてしまっているのです。
それさえやめれば人生は案外カンタンです。
とにかく「わたしにはムリっ! やらないっ!」と丸投げせずに、“ムリなくできること”をちょっとやることが肝心です。
できる範囲までハードルを下げることが大切です。

しかし、ハードルを下げすぎると、
「ムリはいけない…、ムリはいけない…、がんばりすぎはよくない……」
と、はれ物にさわるような心境になってしまい、いつもビクビクオドオドの“情けないキャラ”になってしまいます。
もしくは、
「あれもムリ…これもムリ…ああ無理無理……」
というように“消極的なダメキャラ”になってしまいます。
そうすると、そのキャラにふさわしいストーリーが展開されることになります。

わたしはそうならないように、
「とりあえず、できるとこまでやってみよう!」
「勇気勇気!」
「わたしはできる!」
などのセリフで、勇気あるキャラを演じています。
そうすると、そのキャラにふさわしいワクワクするようなストーリーが展開されることになります。

また、できないことをムリにやろうとするのではなく、知恵をしぼって“別のやり方”を考えることも大事です。
この世は謎解きゲームです。
正攻法で真正面からガンガンつっこむのではなく、頭をひねって裏をかくことが必要です。
そうすればムリすることなく、ラクにやりたいことがやれたりします。

たとえばわたしのばあい、ウォーキングしたくてもなかなかヤル気がでないことがあります。
本当に休みが必要なときは「今日は無理せず休もう」と思うことで、心がおだやかになります。
しかし心が休まらず、“わたしは怠けている”と罪悪感にかられるときは、たいがい第3の道が用意されています。
つまり、無理にウォーキングするでもなく、まったくウォーキングしないのでもない、第3の道があるのです(弁証法ですね)
ここで謎解きゲームのはじまりです。
「なにか良い方法があるはずだ」
と思い、ちょっと思考をめぐらせると、
「あ、そうだ。前から必要だった○○を探しに行こう。
 あちこち店をまわって、いちばん安いものをさがそう
 そうすれば、楽しみながらウォーキングできるぞ♪」
…と、ラクに楽しく目的を実行できるアイデアがうかんできます。

なかには、どうしてもムリがやめられない人、ムリせずがんばってるのにうまくいかない人もいると思います。
そのような人は、他人に無理じいしているばあいがあります。
他人に無理じいするとは、その人にイライラしたり、ネガティブな気持ちをもつことです。
人はだれもが神のあやつり人形です。
神のシナリオどおりに行動しています。
それなのに、人にネガティブな気持ちをもつということは、神を否定していることになります。
つまり無理なこと(理の無いこと)を要求しているのです。
※理(ことわり)とは、宇宙の根本原理のことです。

「あいつはまちがっている!……イライラ」
という人は、
「神のシナリオはまちがっている! 書き直しを要求する!」
と、無理なことを思っています。

「また私は失敗してしまった。なんてバカなんだ……イライラ」
という人は、
「わたしが失敗するはずない! 神のシナリオはまちがっている! 書き直しを要求する!」
と無理なことを思っています。

「人に無理じいするけど、自分は無理したくない」
…なんてわがままは、だれも納得できないと思います。
だからそのような人は、自分も神から無理なことを要求されるようになります。
そして、どうしても無理がやめられず、がんばってもうまくいかない……という理の無い事態におちいってしまうのです。

人は無意識のうちに、いろいろな無理じいしています。
「ものが壊れた……イライラ」
「うちの会社は労働基準法に違反している……イライラ」
「官僚のやることはダメだ……イライラ」
「予定がくるった……イライラ」
「電車がおくれた……イライラ」
「ケガをした……イライラ」
「またイライラしてしまった……イライラ」
などなど、これらはすべて神に対する無理じいになりますのでご注意ください。



●許せば許される

許す必要はないでも書いたように、人を許す必要はありません。
すべては自分がまいた種……、つまり自業自得(自作自演)だからです。
とはいえ、それが分かっていてもイライラしてしまうことがあると思います。

たとえば私がジャイアンに深く傷つけられたとします。
ジャイアンは魂が未熟で、人間的に幼いところがあります。
だから、彼が人を傷つけるのは当然のことです(動物が他者を傷つけるのと同じ原理です)
また、私が傷ついたのは、過去に誰かを傷つけたからであって、カルマが返ってきただけです(自業自得)
もしくは、人生ドラマを楽しみたいがために自分でしくんだシナリオです(自作自演)
このような意味から、私がジャイアンに怒るのは理の無いことになります。
しかしそれがわかっていても、怒ってしまうのが人間です。
それは反射機能※が備わっているから、当然のことでもあります。
しかしこの反射が長くつづくのは、つらいものがありますよね。

そんなあるとき、私はなにか失敗をして、人に嫌な思いをさせてしまいました。
私はもともと超がつくほど痛がりな性格です。
人に嫌な思いをさせたぶん自分も嫌な思いをすることになる(痛いめをみる)と思うと、怖くてしょうがありません。
しかし今は大丈夫です。
納得の法則で、“罰(カルマ)を受けなくても納得できるキャラ”になればいいのです。
しかし今回は、なかなか恐怖がおさまりません。
「どうか許してください。わざとじゃないんですぅ(TT)」
と心のそこから謝っているのに、なぜか天罰をくだされそうな気がします。
それもそのはずです。
なぜなら自分が、他人(ジャイアン)をゆるしていないからです。
自分ではゆるしているつもりでも、イライラしていれば、それはやはり許してないことになります。
“人をゆるさないのに自分だけゆるされたいキャラ”なんて、だれも納得できませんよね。
そのようなキャラには天罰がくだるストーリーがうかんできます。

わたしはこのことに気づいた瞬間、
“ジャイアンへの怒りの苦しみ” と “カルマを恐れる苦しみ” の2つを同時に消すことができました。
私は超痛がりな性格ですから、痛い目をみなくてすむなら、ジャンアンの一人や二人くらい、いくらでもゆるせてしまいます。
つまり、ジャイアンへの怒りがこみあげてきたら、
「ジャイアンをゆるさなければ、わたしの失敗もゆるされず、痛いめをみることになるぞ!」
と、自分の恐怖心をあおるのです(笑)
そうすれば、
「ゆるします、ゆるします\(◎o◎)/」
と、ソッコーでジャイアンをゆるすことができます。
※あくまでわたしのばあいです^^;。
わたしはうつ病になるほどの“痛がり”という弱点のおかげで、怒り恐怖を克服できています。
災い転じて福となすですね…

これを波動でみれば、“怒り”と“恐れ”、2つ波動をぶつけて相殺しているといえます(逆位の波動
こうすれば、ジャイアンへの怒りと、カルマへの恐れを同時に消すことができます。
ひいてはジャイアンをゆるせない自分、失敗してしまった自分をもゆるすことができます。
ひいては自分のつくったカルマをもゆるすことができます。
つまり“カルマは返ってこない”と、納得できたということです。

怒りがこみあげてきたとき、自分のあやまちを思いだして「許せば許される」と唱えてみてください。
そうすれば、カルマが免除されると同時に、怒りをもなくすことができます。

※逆位の波動はかならずしもポジティブな波動とネガティブな波動をぶつける必要はありません。
ばあいによってはネガティブな波動どうしでも相殺できるばあいがあります。
わたしは、怒り・嫉妬・自己嫌悪・不誠実などの感情におそわれたとき、
「そんなことをしていたら、悪いカルマを引き寄せることになるぞ!」
と“恐れ”の波動を起こして相殺することがあります。

もちろん、ポジティブな波動で消すに越したことはありません。
しかしそれでも効かないばあい、解毒剤として“恐れ”をつかうのはアリだと思います。
これは不動明王と同じ原理です。
“毒をもって毒を制す”ですね。



●法則に縛られない

この世にはカルマの法則や、正負の法則などさまざまな法則があります。
だからこそ、宇宙は安心で平等なのです。
しかしその反面、
「悪いカルマが…」「良いことの後には悪いことが…」
などと法則にしばられ、苦しむこともしばしばです。

法則は人生ゲームを楽しむための道具にすぎません。
それなのに法則によって苦しんでいては本末転倒です。
本来の目的を忘れてしまっています。

たとえば、許せば許されるの説明を読んで
「恐怖心をあおったりしたら、引きよせの法則で恐怖を引きよせるんじゃ…」
と思った人は、引き寄せの法則にしばられているといえます。
つまり、納得の法則よりも引き寄せの法則を優先しているのです。

神(=自分)は法則をつくる側です。
だから法則にしばられる必要はありません。
どんな法則でも、自分の“納得”のできるようにつくり変えればよいのです。
これが納得の法則です。
それをせず、与えられた法則にしばられて苦しむのは、自分が神だということを忘れているからです。
その意味では宗教や占いの教えにしばられて苦しむ必要もまったくありません。
自分の納得のいくように、どんどん書きかえればよいのです。
否、書きかえなければなりません。
人はつねに進化しつづけるものだからです。

このブログの内容も、絶対の真実というわけではありません。
より納得のいく考えが見つかれば、そちらが真実に近くなります。
だからブログの内容にしばられて苦しむことはありません。
自分の納得のいくように、どんどん修正してください。
そして、新たにみつけたその真実を、ぜひみんなに教えてあげてください。
そうすることによって、地球はますます天国に近づいていきます。


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