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今に生きるコツ

2013.06.02.14:04

レッスン1で今に生きるということを
“今できることをやること”と書かせていただきました。
しかしこの説明だけでは少し足りないと思いますので、今回はもっと今に生きられるコツをご紹介させて頂きたいと思います。



●何もしていないときでも今に生きる方法

スポーツなどで体を激しく動かしているときや、勉強・仕事などで脳を激しく使っているときは、わりと簡単に今に生きられます。
そのことで脳がフル活動しているため、雑念の入る余地がないからです。
しかし、散歩、食事、日常の家事など、簡単なことをしているときほど、今に生きるのが難しくなってきます。
脳に余裕があるため、そのすきにネガティブ思考が入り込んでくるからです。
ボーっと歩いているときや、こなれた家事をしているとき、ふとユウウツな気分に襲われることがあると思います。
それは脳(魂)がそのようなしくみになっているからです(宇宙は真空を嫌う Ctrl+F検索)

だからネガティブ思考の入る余地がないように、つねに頭を忙しくしておくことが大切です。
かといって、ずっと脳を酷使しつづけるわけにはいきません。
一日中むずかしい勉強をしたり、慌ただしく仕事をするのは不可能です。
無理してがんばると、「つらい」「しんどい」など、悪い波動が出てきてしまい、かえって悪いカルマをつくってしまいます。
人間、ときには休むことも必要です。
しかし油断しているとネガティブ思考が入り込んできてしまいます。
ではいったいどうすればよいのでしょうか?



●すべての行為の目的は、“幸福感”である

あなたが何かをやっているとき、それは何のためにやっているのでしょうか?
必死になって勉強したり、仕事したりしているのはいったい何のためなのでしょうか?
ある人は夢のためだったり、またある人は家族のためだったりします。
人によってその目的はさまざまです。
しかし、すべての行為には共通した目的があります。

それは幸福感です。

勉強するのは、将来良い仕事をして幸福感をえたいからです。
仕事をするのは、お給料をもらって、より幸福感のある生活がしたいからです。
積極的に幸福感をえたいと思っていない人でも、「できるだけ嫌な思いはしたくない」「なるべく不幸な状況をさけたい」と思っているはずです。

積極的にせよ消極的にせよ、すべての行為には“幸福感”という目的があるのです。



●未来の幸福感にとりつかれない

以前の私はなかなか今に生きることができませんでした。
それは私が行動の目的を“未来”だけに置いていたからです。

「勉強して夢をかなえるぞ!」
「運動して体を丈夫にするぞ!」
「仕事をがんばって良い結果をだすぞ!」

これらはすべて、“未来”に目的があります。

夢がかなって幸福感がえられるのも、
体が丈夫になって幸福感がえられるのも、
仕事で良い結果を出して幸福感がえられるのも、
すべて“未来”のことです。
“今”ではありません。

私は今に生きているつもりが、いつのまにか未来の妄想に生きていたのです。
まんまと神のトリックゲームにハマっていました。

もちろん未来の目標にむかってがんばることは大事です。
しかしそのために“今”の波動が悪くなってしまっては本末転倒です。

目的を未来におくと、ついつい今の波動がなおざりになってしまいます。
つまり今、「しんどい」「やめたい」「地獄だ」と感じているのに、それを無視してがんばってしまうのです。
それは意識が未来に飛んでいて、“今”に集中できていないからです。

「夢がかなったらこの苦労もむくわれるんだ…」
「がんばって徳をつんで幸せになるんだ…」
などと、未来の幸せに心うばわれていると、“今”の波動がおろそかになってしまいます。
「自分はがんばってるんだ! 良いことをしているんだ!」という“おごり”も邪魔をして、今の「苦しい」という波動を無視してしまうのです。
がんばりすぎて心や体をこわしてしまう人は、このパターンだと思います。

がんばりすぎといえば聞こえはいいですが、私のばあいは単なる“強欲”でした。
以前の私は、鼻先にニンジンをぶらさげて、目を血走らせながら走るウマのような感じだったと思います。
本当は走りたくないのに、“未来の幸福感”というエサで自分をつって、無理やり走らせていたのです。
もちろん、人が何かをやるためには未来に目的を持つことは必要です。
それがなくては何もヤル気がおきません。
しかし、そのために“今”の波動が悪くなってしまっては本末転倒です。
波動の悪い状態でいくら一生懸命がんばっても、“今に生きている”とはいえません。
自分の出した苦しみの波動が、また苦しみのできごとを引き寄せてしまいます。

このようなことにならないためには、未来と同時に、“今”にも幸福感を求めることが必要です。
つまり、未来のためにがんばりながら、そのがんばるという行為そのものに幸せを感じるということです。
では、どうすればそのようなことができるのでしょうか?



●行為を目的にする

そのコツは“行為を目的にする”ことです。

以前、この世界はバーチャルゲームのようなものだということを書かせていただきました。
ゲームとは、いわば“遊び”です。
私たちは今、この瞬間も、バーチャルゲームという遊びをしている真っ最中です。

私たちは遊ぶことが大好きです。
私たちの最終目的はつねに“遊ぶこと”であり、すべての行為はそこにむかっています。
勉強しながら、仕事しながら、家事をしながら、
「これが終わったらマンガを読もう」
「ここまでやったらテレビを見よう」
「これを片付けたらゆっくり休もう」
などと潜在意識のなかで“遊ぶこと”を目的にしています。

休むことも遊びのひとつです。
私たちが遊ぶのは、もっぱら休み時間や休日です(当たり前ですが…)
休憩中にボーっとしたり、空想にふけたりすることも“心を遊ばせている”といえます。

では、私たちが“遊ぶ目的”とはなんでしょうか?

たとえばコンピューターゲームという遊びなら、“ボスをたおす”とか“ゲームをクリアする”といった目的があります。
しかし私たちはそのためにゲームをしているわけではありません。
「ボスをたおしたい!」とか「ゲームをクリアしたい!」などと思ってゲームを買う人はまずいないと思います。

私たちが高いお金をはらってゲームをやる目的は、ズバリ、“ゲームをやることそのもの” です。

私たちは、ゲームをやることそのものに幸せを感じるからゲームをしているはずです。
“ボスをたおす”とか“ゲームをクリアする”といった目的は、あくまでゲームを楽しむための手段でしかありません。
本当の目的は、ゲームをやる(遊ぶ)という行為そのものだと思います、

たとえばドラクエをしている人は、町を歩いたり、村人と会話したり、お店で買いものしたり…といった行為そのものから幸福感をえているはずです。
キャラクターが自分の代わりになって、いろいろな行動をすることじたいに楽しみや幸せを感じていると思います。
つまりゲームで遊んでいるときは、歩く、話す、買い物する…といった“行為そのものを目的にしている”ということです。

先ほど、“行為の目的は幸福感である”ということを書かせていただきました。
つまり、“行為そのものを目的にする”ということは“行為そのものに幸せを感じる”ということなのです。

行為とは、“今”しかできないものです。
歩くことも話すことも買い物することも“今”しかできません。
過去で歩いたり、未来で話すことはできません。

勉強する、仕事する、ボーっとする……など、ありとあらゆる行為は“今”しかできないものです。
つまり、“行為そのものに幸せを感じる”ということは、“今、幸せを感じる”ということなのです。

“今、幸せを感じる”ということは、すなわち“今に生きる”ということです。

いくら“今やるべきこと”をやっていても、その行為に幸せを感じていなければ、今に生きているとはいえません。
いくら必死になって頑張っても、心が苦しんでいれば今に生きているとはいえないのです。
苦しみがまったくない人生というのはありえませんが、できるかぎり“苦しむ”ことは避けるべきです。
自分が苦しむということは、他人を苦しめることになるからです(人は運命共同体公害人間になるな!



●“自分はゲームで遊んでいる”ということを自覚する

行為を目的にする…、つまり行為そのものに幸せを感じるためには、
「自分は今、バーチャルゲームで遊んでいるんだ」
ということを、つねに自覚することが大切です。

なぜなら人は遊ぶことで、今に生きられるようになるからです。
逆に、“遊んでいないと今に生きられない”ともいえます。

自分が遊んでいるという自覚のうすい人は、心に余裕がありません。
だからつい、必死になってものごとに取り組んでしまいます。
しかし、“必死”などという険しい波動は、天界の高いところ(天国)にはありません。

いわゆる“天国”をイメージしてみてください。
そこは、“おだやか”で“ゆったり”とした“楽しい”波動に満ちていると思います。
必死の形相で何かやっている人のいる天国は想像できないと思います。

必死は“必ず死ぬ”と書きます。
このような心境で“今に生きる”ことは不可能です。


ただ、遊んでいても、それに幸せを感じていないと、今に生きているとはいえません。
例えば、スポーツは遊びの一種ですが(スポーツすることをプレイする(=遊ぶ)といいますよね)、自分が遊んでいるという自覚の薄い人は、

・相手に勝って優越感をえる(ことで幸せを感じたい)
・すごいプレイをして名誉をえる(ことで幸せを感じたい)
・友だちをつくる(ことで幸せを感じたい)
・お金をもうける(ことで幸せを感じたい)

などと、“未来の目的”をムキになって追いかけてしまいます。
そのような心境では、プレイしていてもなかなか幸せは感じられないと思います。
それは裏を返せば、

・相手に負けて劣等感を味わうのが怖い
・下手なプレイをして劣等感を味わうのが怖い
・仲間はずれになるのが怖い
・お金を損するのが怖い

という恐怖心でもあるからです。
恐怖心にとりつかれるあまり、場外乱闘したり、体が壊れるほどどれーニングしたり、はては八百長などの犯罪まで犯してしまう人もいます。
ゲームが終わってからも、ウツになるほど落ち込んだり、悔しがったりしている人がいますが、これなども、自分が遊んでいるという自覚に乏しいためです。

なかには、「スポーツは遊びじゃない! 仕事だ!」という人もいると思います。
ですが、人生はそもそも遊びです。
仕事もスポーツも何もかも、すべては自分でつくったバーチャルゲームにすぎません。


この世のすべては、神の意識がつくりだしたバーチャル(仮想的)なものです。
お金もモノも、地位も名誉も、すべては波動でできていて、実態のないものです。
しかし私たちはあたかもそれらが実際にあるかのように思いこんでエキサイトしています。

キッザニアというテーマパークでは、銀行、消防署、ガソリンスタンドなど、いろいろな仕事をバーチャル体験として“遊び”にしていますが、人生はまさにこれと同じです。
私たちは職業体験テーマパークで遊んでいるようなものなのです。
バーチャルゲームなら、つらい仕事も遊びになってしまいます。


カルマの法則、波動の法則、進化の法則など、ありとあらゆる法則も、いわば神のつくった遊び(ゲーム)です。
法則のあつかいがうまくなればなるほど、幸せになれるようプログラムされています。

学校の勉強にしたって、国語は言葉あそびですし、算数は数あそびです。
音楽、美術、体育はもちろん、理科も社会も物理もなにもかも、見方を変えれば遊びになってしまいます。


私は心がネガティブになってきたら、すぐに
「自分はバーチャルゲームなかで遊んでいるんだ」ということを思い出すようにしています。
そうすると、ドラクエをプレイしているときと同じように、行為そのものに幸せを感じられるようになります。
ただ歩いたり、会話したり、買い物したりといった行為そのものを楽しめるようになります。
ひごろユウウツな気分でながめていた町並みにも、「なんてリアルなんだ!」と、ワクワクできるようになります。
なにげない道ばたの草花を見ても、「なんて素晴らしいできばえだ!」と感動できるようになります。
すれちがうサラリーマンも、暴走自転車のおばさんも、ワーキャーうるさい学生も、みな愛すべきキャラクターに見えてきます。

仕事も、家事も、人間関係も、「これはゲームなんだ」ということを思い出せば、つらさが半減してしまいます。
折りにふれ、“自分は今、ゲームで遊んでいるんだ”ということを、思い出してみてください。
行為そのものが目的になり、今に生きられるようになります。



●“ゲームの目的”と“本当の目的”はちがう

人生はロールプレイングゲームでもあります。
ロールは“役”
プレイは“遊ぶ”
訳すと“役を演じて遊ぶゲーム”ということになります。
つまりは“ごっこ遊び”のことです。

子どものころ、ヒーローごっこやお姫様ごっこをしたことのある人もいると思いますが、人生はこれと同じです。
私たちの本当の姿は神ですが、それが男とか女とか子どもとか大人とか、さまざまな役を演じて遊んでいます。
家ではママゴト、学校では学校ごっこ、会社では会社ごっこをして遊んでいます。

ドラクエやファイナルファンタジーなどのゲームも、いわゆるロールプレイングゲーム(RPG)です。
RPGをしているとき、私たちは勇者や魔法使いの役を演じています。
主人公になりきって、歩いたり、話したり、買い物したりしています。

そのとき、私たちは純粋に“今”を楽しんでいると思います。

歩きながら、「もしゲームをクリアできなかったらどうしよう……」などと未来を憂いたり、
話しながら、「もしかしたら嫌われたかもしれない……」などと過去を憂いたりすることはないと思います。

RPGをしている人は、歩く・話す・考える…といった、“今”している行為をそのものに幸せを感じています。
つまり、“今”に生きているのです。

ゲームの中のキャラクター(勇者など)には「魔王をたおしたい」とか「世界を平和にしたい」などといった“未来の目的”があります。
しかし、ゲームの外でキャラクターを操っている私たちには、そのような目的はありません。
私たちは純粋に、ゲームをするという行為(=今)が楽しいからゲームをしています。
「魔王をたおしたい」「世界を平和にしたい」などの目的は、ゲームを楽しむための“手段”でしかありません。


私たちは今、人生という名のRPGを遊んでいる真っ最中です。
RPGのキャラクターである自分には、「幸福感をえたい」という目的があります。
歩く、仕事をする、犯罪を犯すなど、ありとあらゆる行為は、「幸福感をえたい」という未来の目的にむかっているはずです。

しかし、RPGの外で自分をあやつっている自分(神)にそのような目的はありません。
神はただ、遊ぶという行為(=今)が楽しいから遊んでいるのです。
「幸福感をえたい」「人間的に成長したい」「世界を平和にしたい」などの目的は、遊ぶための“手段”でしかありません。
手段と目的をとりちがえると、大変なことになってしまいます。


かといって、“未来の目的”もってはいけないというわけではありません。
むしろ持つべきです。
なぜなら、この世はバーチャルゲームだからです、
ゲームには必ず“目的”が必要です。

サッカーなら“相手に勝つこと”
UFOキャッチャーなら“景品を取ること”
パチンコなら“お金をかせぐとこ”
など、ゲームと目的はワンセットになっています。

何の目的も持たずにサッカーやUFOキャッチャーやパチンコをしても、まったくおもしろくないと思います。
むしろ無意味な行為をしていることにウツになってくると思います。
かつてシベリアの刑罰に、ただ無意味に穴を掘っては埋めることをくりかえさせるというものがありました。
それを体験したドストエフスキーは「もっとも残酷な刑罰は、無意味な労働をさせることだ」というようなことを書いています。
同じ穴を掘るのでも、金を探すなどの目的があれば、まだやりがいがあります。
しかし何の目的もなく穴を掘らされるのは、苦痛以外のなにものでもないと思います。

それと同じで、なんの目的ももたずに人生というゲームをプレイしていても、それは苦痛以外のなにものでもなくなってしまいます。
苦痛すぎて、とちゅうでリセット(自殺)したくなるかもしれません。
そうならないためには、つねに“目的意識”をもつことが必要です。
それは大きな目的でなく、とりあえずの目的で充分です。

とはいえ、たいていの人は、「幸せになりたい」「人間力をアップしたい」など、なにかしら目的をもっていると思います。
しかしそれはあくまで、“人生ゲームのなかの目的”です。
ドラクエの「魔王をたおす」と同じです。
ゲームの中の目的は、ゲームを楽しむための手段でしかありません。
本当の目的ではないのです。

「いつまでたっても病気がなおらない! つらい! 苦しい! もう嫌だ!」
「こんなに努力してるのに、ぜんぜん人間的に成長しない! どうせ私はダメ人間だ!」
「こんなに頑張ってるのに、いつまでたっても幸せになれない! もうどうしていいか分からない!」

などと苦しんでいる人は、手段を目的にしてしまっている人です。
ゲームのなかの目的を現実の目的だとかんちがいして、必死になってしまっています。

この世はバーチャルゲームです。
単なる遊びにすぎません。
それを、おさない子どものようにムキになってしまうと、楽しむためのはずのゲームが楽しめなくなってしまいます。


私たちの本来の目的は、ただこの人生ゲームを楽しむことです。
いいかえると、行為そのものを楽しむことです。
見る、聞く、ふれる…といった行為そのものに幸せを感じることです。
悩む、恐れる、ガッカリする、といった行為そのもを味わい、おもしろがることです。

それ以外にはありません。

人間力を高める
幸せになる
夢を叶える
世界を平和にする
人類を救う

など、いかに崇高な目的でも、すべては人生ゲームを楽しむための手段でしかありません。
そのことをしっかり自覚することが大切です。



●リズムゲーム

かといって、24時間ずっと
「これは単なるゲームなんだ」
「本当の目的は今を楽しむことなんだ」
などと思い続けることは不可能です。
また、その必要もありません。

なぜならこの世はリズムゲームでもあるからです。

この世でリズムのないものはありません。
宇宙、銀河、天体などのマクロなものから、原子、電子、量子などのミクロなものまで、すべてがリズムを刻んでいます。
地球の回るリズムによって12ヶ月や一週間の暦がつくられ、私たちはそのリズムにノって生きています。
電子は原子の周りをまわっていますが、そこには地球が太陽の周りをまわるのと同じようなリズムがあります。

また、“波動”を絵にかくと、上がったり下がったりの波のような絵になりますよね。
リズムとは“周期的な反復”のことですから、この波の絵(波動)はまさにリズムそのものだといえます。
つまり、“波動=リズム”だということです。

物質から魂まで、この世のすべては波動でできています。
だから、すべてのものにはリズムがあるのです。


人体は、呼吸、脈拍、心臓の鼓動など、つねにリズムをきざんでいます。
それと同じで、“意識”もつねにリズムをきざんでいます。

私たちの意識は、

・バーチャル世界にのめりこんで我(神)を忘れる
   ↓
・「これは単なるバーチャルだった!」と我(神)に返る
   ↓
・バーチャル世界にのめりこんで我(神)を忘れる
   ↓
・「これは単なるバーチャルだった!」と我(神)に返る
   

…というリズムを無意識のうちにきざんでいます。
つまり、

・バーチャル世界(人間意識)
   ↓
・真実の世界(神意識)
   ↓
・バーチャル世界(人間意識)
   ↓
・真実の世界(神意識)

…と、バーチャルと真実のあいだでリズムをきざんでいるということです。

また、私達の意識は

・過去(未来)を憂う
   ↓
・今を楽しむ
   ↓
・過去(未来)を憂う
   ↓
・今を楽しむ
      :
と、過去(未来)と今のあいだでもリズムをきざんでいます。
過去や未来は人の頭のなかにしかないバーチャルなものです。
ここにも、バーチャルと真実のあいだでゆれうごくリズムをみることができます。

・この世(バーチャル世界)に産まれる
   ↓
・あの世(真実の世界)にかえる
   ↓
・この世(バーチャル世界)に産まれる
   ↓
・あの世(真実の世界)にかえる

という輪廻転生にも同じリズムをみることができます。

リズムは自然の法則です。
リズムは、神の作った遊びです。
だから、「なかなか今に生きられない!」「また未来のことを心配している!」という悩みは根本的におかしなことだと思います。
この世にリズムがある限り、意識を“今”にとどめることはできません。
意識は波動です。
バーチャル(=過去・未来)と、真実(=今)のあいだを反復して、つねにリズムをきざんでいます。
これこそが神の奏でるメロディーであり、音楽であり、芸術なのです。

だから、
「この世はバーチャルゲームにすぎないのに、どうしてもムキになってしまう」
「この世は実体のないものなのに、どうしてもお金やモノに執着してしまう」
という悩みも悩みとして成り立ちません。
そもそも宇宙はそういうふうにできているからです。

映画をみるとき、「どうせこれは実体のないつくりものなんだ」「ムキになって見てはいけない」なんて四六時中かんがえていたら、映画を楽むことができません。
映画を楽しむためには、夢の世界(バーチャル世界)に入り込むこと、つまり“夢中”になることが必要です。
しかし夢中になりすぎると、ストーリーや登場人物に感情移入しすぎて、かえってつらくなってしまいます。

わたしはかつて、マンガや小説に夢中になりすぎて、精神を病んでしまったことがあります。
そうならないためには、「これは単なるマンガ(小説・映画)なんだ」と、意識をバーチャル世界の“外”に出すことが大切です。

そうしてしばらくすると、またバーチャル世界に戻ってしまうのですが、それがリズムです。
バーチャル世界に落ち込んだと気づいたときに、また真実の世界にジャンプすればよいのです。
つまり、バーチャルと現実のあいだでリズムにノるということです。


神はこの人生という映画をとことん楽しみたいと思っています。
だから「これはバーチャルゲーム世界なんだ」と頭でわかっていても、勝手にハラハラドキドキしてしまいます。
熱くなったり、ムキになったり、どっぷり落ち込んだりして、どうしてもバーチャル世界に夢中になってしまいます。
しかし、心配しなくても、そのうちかならず正気にかえることができます。
この世はリズムでできているからです。


この世界を楽しむためには、リズムをゲームとして楽しむことが大切です。
それは、

・バーチャル世界にのめりこむ
   ↓
・我(神)にかえる
   ↓
・バーチャル世界にのめりこむ
   ↓
・我(神)にかえる
   
という心の動きを楽しむということです。


「自分は今、リズムゲームをしているんだ」ということを自覚すれば、とても楽しい人生をおくることができますよ♪



●今が天国  

一般的に、夢や目標をもつことは良いことだとされています。

「結婚するぞ!」
「お金もちになるぞ!」
「人間関係を良くするぞ!」

などのように前向きな夢や目標をもつことは、たしかに良いことです。
しかし“夢や目標をもつことは良いことだ”という固定観念がジャマをして、かえって今に生きれなくなることがあります。
それは、

「結婚すれば幸せになれる」
「お金があれば幸せになれる」
「人間関係を良くすれば幸せになれる」
「夢が叶えば幸せになれる」

…などのように、幸せに“条件”をつけてしまうときです。
このように「~れば幸せになれる」と考える人は、いざそのような状況になっても幸せにはなれません。
なぜなら今度は、

「子どもができたら幸せになれる」
「もっとたくさんお金があれば幸せになれる」
「もっと人気者になれたら幸せになれる」
「もっと大きな夢がかなえば幸せになれる」

…などと考えはじめるからです。
このような人は永遠に幸せの青い鳥をおいかけるハメになります。


この世はファジーにできています。
いつも不完全な状態です(ユダヤの法則)
完全な状態など永遠にきません。
それなのに人は無意識のうちに“完全”を求めてしまいます。
つまり、
「わたしが不幸なのは不完全だからだ。完全な状態になれば幸せになれる」
と思ってしまうのです。
具体的には、
「わたしは結婚してないから不完全な状態だ。結婚して完全な状態になれば幸せになれる」
「わたしはお金がないから不完全な状態だ。お金持ちになって完全な状態になれば幸せになれる」
「今は人間関係が悪いから不完全な状態だ。何のイザコザもない完全な状態になば幸せになれる」
「今は夢がかなっていないから不完全な状態だ。完全に夢がかなえば幸せになれる」
…などという感じです。

しかし前述のように、完全な状態など永遠にきません。
たとえ結婚しても、大金持ちになったとしても、今度は別の悩みがでてきます。

つまり、人は“今”幸せにならなければ、永遠に幸せにはなれないということです。

状況や環境は関係ありません。
どんな状態であろうと、“今”幸せにならなければ、未来永劫しあわせにはなれないのです。

それは逆にいえば、“私たちは今、この場で幸せになれる” ということです。

完全な状況が永遠にこないということは、言いかえると、“私たちはすでに完全な状況にある” ということになります。
孤独だろうが、貧乏だろうが、病気だろうが、なんの問題もありません。
どんな状況でも、すべてひっくるめて、私たちはいつも完全な状態にあります。
神様は私たちをいつも完璧でベストな状況においてくれています。

「とてもそうは思えない! 私の人生はぜんぜん完璧じゃない! 足りないことだらけだ!」
…という人は、なにをもって「足りない」と言うのでしょうか?
それは“まわりと比べて”だと思います。
宇宙は相対関係でできていますから、自分一人で“足りない”状態にはなれません。
“足りない”人は、まわりと比べて“足りない”と思っているのです。

しかし今の日本で“お金がたりない”と思っている人でも、貧困国に比べたら、ずいぶん“足りてる”人になります。
パソコン、テレビ、洗濯機、扇風機……
どんな人でも、生活保護や施設を利用すれば、徳川家康よりも便利な生活をおくることができます。
それなのに「足りない、足りない、もっと、もっと」と思うのは、あまりに強欲だと思います。

欲にはキリがありません。
欲は永遠に満たされません。
なぜならこの世は不完全にできているからです。
完全に欲が満たされる日は永遠にこないのです。

この世はゲームですから、欲をおいかけることは大切です。
欲とは、いいかえれば目標のことです。
目標がなければゲームを楽しめません。
目標(欲)とゲームはワンセットです。

しかしゲームを楽しむには、それだけでは不十分です。
ただ欲をおいかけるのだと、楽しさよりも苦しさのほうが勝ってしまいます。
そのことはみなさん身を持って経験していると思います。

ゲームを楽しむためには、欲を追うのと同時に、
「自分は今、完全に満たされている」
ということを自覚することが必要です。
この自覚のない人は、
「私は不完全だ。健康が足りない! お金が足りない! 愛が足りない!」
という思いで欲をおいかけます。
しかし欲は永遠に満たされないので、永遠に苦しみ続けます。

いっぽうで、
「自分はすでに完全な状態にある。足りないものは何もない」
という自覚のある人は、“足りない”から欲をおいかけるのではありません。
ただ“ゲームを楽しみたい”から、欲をおいかけるのです。
目的が違います。
欲をおいかけるのは自分の不足をおぎなうためではなく、ただ“ゲームを楽しむため”です。
だから「もっと!もっと!」とムキになって、ガリガリ亡者のように苦しむことがありません。
余裕を持って人生を楽しむことができます。

私たちは神です。
神は完全無欠の存在です。
足りないものはありません。

足りないものがない場所といえば“天国”です。
「お金が足りない!もっとお金があれば幸せになれるのに…」
「愛が足りない!彼がもっと私を愛してくれたら幸せになれるのに…」
「名誉がたりない! もっといい仕事につけたら幸せになれるのに…」
などと言う人のいる天国は想像できないと思います。

私は以前まで、天国はとても遠いところにあるイメージを持っていました。
長い修業の果てにたどりつける場所だと思っていました。
しかし今では毎日のように、「今が天国だ!」と思っています。

それは私が人間的に優れているからでも、徳が満タンになったからでもありません。
ただ、天国は“今ここ”にあるということに気づいただけです。

幸せの青い鳥の話はご存知でしょうか?
かんたんに言うと、“さんざん外を探しても見つからなかった幸せの青い鳥は家の中にいた”という話です。
天国もまさにこれと同じです。
天国はどこか遠くにあるのではなく、今ここにあります。
“灯台下暗し”で、あまりに近すぎてわからないだけです。
ちょっと視点をずらせば、すぐに見つかります。
ちよっと考え方を変えるだけで、たった今からでも天国に住めてしまうのです。
これは本当におもしろい神のトリックだと思います。



●今に生きるには、とにかく感謝!

なかなか「今が天国だ」と思えない人は、とにかく“感謝”を忘れています。

お坊さんは断食したり滝行したり、厳しい修行をしていますよね。
あれは潜在意識のなかで“普通がどのくらいありがたいか”を悟りたいと思っているからです。
ありがたいとは、“有り難い”と書きます。
有り難いとは、“有ることが難しいこと”
……つまり“奇跡”のことです。


今の日本では、だれもが毎日ごはんを食べられますが、これは普通ではありません。
奇跡です。
昔は食料がなかなかな手に入らず、多くの人が餓死していました。
今でも貧困国では大勢の人が餓死しています。
このことを思い出せば、
「私はデブだ。ダイエットしなきゃ…」
「貧乏だからこんなものしか食べられない…」
「病気だから、あれも食べられない、これも食べられない…」
などとウツになりそうになっても、
「いや、普通にごはんを食べられるだけでありがたいんだ」
と、すぐに感謝で今に生きられるようになります。


フォークダンスでおなじみの“マイムマイム”という曲がありますが、これはイスラエルで水を掘り当てた喜びを表したものです。
「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・ベッサンソン♪」とは、
「水・水・水・水・水・水(が出て)嬉しい♪」」という意味です。
日本は水がたくさんあるので、水に対してそれほど有り難みを感じませんが、乾燥地域ではとても有り難いものです。
水!水!水!と連呼するところからも、いかに“有り難い”かがわかります。
私たちは普通にガブガブ水を飲み、毎日お風呂に入れていますが、乾燥地域の人たちにとっては普通のことではありません。
マイムマイムを作った人たちから見れば、奇跡だと思います。
だから私は水を使うとき心のなかで「マイムマイム♪」を歌います。
そうすると当時の人々の心にシンクロして、感謝の心で今に生きられるようになります。

現代でも、毎日水くみに何時間も歩かなければならない地域もあります。
そんな地域に住む子どもたちは、1日の大半を水くみに費やさなくてはならないため、まともに勉強する時間がもてません。
そのため、貧困からぬけだせないという悪循環におちいっています。
しかし私たちは当たり前のように義務教育を受けられますし、大人になってからも図書館などを利用すれば無料でいくらでも学ぶことができます。
このような環境は決して普通ではありません。
“勉強できる”ということじたい、とても有り難いことなのです。
朝おきたとき「学校に行きたくない」と思ったら、このことを思い出してください。
そうすれば「学校に行けるだけでも有り難い」と、感謝の波動で今に生きられるようになります。


大人になると1日の大半を仕事についやすことになりますが、そもそも仕事があるということはとても有り難いことです。
途上国では、そもそも職場が圧倒的に少なく、働きたくても働けないのが実情です。
日本でも会社が倒産したりリストラされたり、仕事のない人はたくさんいます。
私は「仕事に行きたくない」「つらい」「こんな仕事…」と思いそうになったら、これらのことをすぐ思い出します。
すると「仕事があるだけ有り難い!」と感謝の波動で今に生きられるようになります。


誰でも病気になってしまったときは、痛みや不安などから今に生きれなくなることがあると思います。
そのようなとき、つい自分の心配ばかりしてしまい、感謝の気持ちを忘れがちです。
しかしたとえ病気になっても、感謝できることはたくさんあります。
例えば、日本では法外な最先端医療さえのぞまなければ、誰でも普通に医療行為が受けられます。
しかもお医者さんはみんな正式な資格をもった人ばかりです。
私たちはこのことを当たり前のように思いがちですが、これは当たり前のことではありません。
世界ではまともに治療をうけられない人のほうが多いくらいです。
アメリカですら貧困層はキチンとした医療行為を受けられていません。
日本も昔は寿命が今の半分程度しかなく、多くは若くして病死していました。
私は体調不良で不安になったとき、これらのことを思い出して、
「医者にみてもらえるだけ有り難い!」
「近くに病院があるだけ有り難い!」
と思っています。
また守護霊様はなるべく私たちがつらい思いをしないよう、病状が軽くなるよう、つねにに働いてくれています(人は運命共同体だからです)
そのことに対しても「守護霊様、有り難うございます!」と感謝しています。

このように、感謝で今に生きていると、痛みやつらさがだんだん減ってきます。
なぜなら、痛みやつらさの大半は、不安・怒りなどのネガティブな波動が原因だからです。
ガンの腫瘍や骨の変形など、物理的なことは直接の原因ではありません。
それらの異常も結局のところ、自分のネガティブな波動が原因だからです。
同じような腫瘍をもっていても、かたや元気に動きまわり、かたや激痛で苦しんでいる人がいます。
両者の違いは、その人の波動の違いが大きいといえます。
もちろんポジティブな波動の人でも、一時的に苦しむことはあります。
しかしそのような人の苦しみがえんえん長く続くことはありえません。

病気になったとき、つい薬に頼ろうとしますが、それはあまり意味がありません。
「神様はなぜ自分を病気にしたのだろう」と自問自答してみてください、
“薬や手術で治すため”
という答えが浮かんでくる人はまずいなはずです。
それに対するの答えはやはり
“もっと感謝ができるような人間力をやしなうため”
“もっと今に生きられるように人間力をアップするため”といったものだと思います。
なのに、それらの声に耳をかさず、医者や薬にたよろうとするのは、一時しのぎ以外のなにものでもありません。
根本原因(=自分の心)が治っていないのですから、しばらくすればまた再発してしまいます。
※もちろん、医学を全否定するつもりはありません。
 どうしても薬が必要なばあいもあります。
 ファジーに考えてくださいね。


病気はいわば、人間力をつけるためのトレーニングゲームです。
病トレゲームの目的は、人間力をつけて今に生きられるようになることです。
だからあるていど今に生きることができるようになれば、たいがいの病気は勝手に治ってしまいます。
目的が達成されたからです。
このことを悟ってから、私は薬や病院に頼ることがほとんどなくなりました。
「どうしよう、何の病気だろう…」
「治らなかったらどうしよう…」
などと不安になることはまったくありません。
どんな病気になろうとも、今に生きてさえいれば大丈夫だからです。
今に生きれなくてもかまいません。
今に生きようとするだけでOKです。
神様は無理なことはいいません。
自分にできる範囲で今に生きていれば、すべては良い方向へむかっていきます。

もし手術をする段階になっても、今に生きていれば恐るるにたりません。
手術をするとなると、不安や恐怖でなかなか今に生きられないと思います。
しかしよく考えてみれば、手術をされるがわよりも、手術をするがわのほうが大変な思いをしているはずです。
絶対にミスはゆるされませんし、ミスなどしようものなら取り返しの付かないことになってしまいます。
そもそも注射をしたりメスを入れたり、人の体を傷つけるのは精神的に大変なことだと思います。
「こっちは高い金はらって手術させてやってるんだから、当然のことだ」
「医者は切ったり縫ったりするのが好きな人がなってるんだ」
などと思う人の波動はネガティブです。
まったくもって今に生きていません。
今に生きるとは、ポジティブな波動を出すということです。
大変な思いをしているお医者さんたちの気持ちを思いやって、感謝するということです。
具体的に言えば、
「有難うございます、有難うございます……」
「私のために誠意を持って手術してくださって感謝します」
と、感謝の言葉で“今”を埋めるということです。
そのようにしていると、自分の出したポジティブな波動で不安や痛みが中和されます。
だからつらい手術もわりと楽に乗り越えられるようになります。

また霊視のできる人には、守護霊様が患部に手を当てて痛みをやわらげようとしているようすが見えるようです。
なので、その光景を想像して「守護霊様、有り難うございます」を連発していれば、たとえ手術中であろうとも感謝の心で今に生きることができます。


歩いているとき、座っているとき、ボーっとしているとき、私たちはいつでもどこでも今に生きることができます。
たとえば、私たちはつねに何か“モノ”を使っていますよね。
服というモノは、ふだんほとんど無意識に身につけていますが、もしとつぜん服が消えてしまったらとても困ると思います。
靴もほとんど無意識にはいていますが、靴がとつぜん消えてしまったら、ヤケドしたり凍傷になったりしてしまいます。
歯ブラシ一本にしても、もしなくなってしまったら、虫歯だらけでとても苦しむことになってしまいます。
紙、ペン、ハサミ、タオル、トイレ、家……など、どれもこれも、普段はたいして有り難いとは思いませんが、いざなくなれば困るものばかりです。

モノがあるのは普通のことではありません。
私たちの身の回りにあるものは、もともと宇宙のチリでした。
それがビッグバン・核融合などをへて、奇跡的な確率で、そのモノになっています。
つまりすべてのモノは奇跡の産物であり、文字どおり“有り難い”ものなのです。

なかには「俺は無欲だ! モノはいらない!」という人もいるかもしれません。
しかしそれは“人間が作ったモノ”がいらないのであって、“神の作ったモノ”はどうしたって必要です。
神の作ったモノとは、火、水、土、光、空気、地球、太陽など、この世のすべてです。
その人自身も神の作ったモノです。

私たちは今こうして普通にモニターを見て、普通に字を読んでいますが、これはひとえに“目”というモノがあるおかげです。
目があるということは当たり前すぎて、その有り難さを忘れがちです。
しかしたった今、目が見えなくなってしまったとしたら、その有り難さを痛感することになってしまいます。
歩くことも、食べることもままならず、今の仕事もできなくなってしまうかもしれません。
テレビもパソコンも見れず、本もブログも読めず、人間力を高める勉強をするのにも一苦労です。

名著“道は開ける”の中に、盲目から回復した女性の話があります。
彼女は目が見えたとたん、ただ“見える”ということにたいして、ただならぬ喜びを感じています。
私たちにとって目が見えることは“普通”のことですが、彼女にとっては“歓喜”です。
私たちには“普通”の景色も、彼女にとっては“圧倒的に美しい芸術”です。
彼女は食器を洗いながら、ちいさな泡のひとつにすら美しさを感じ、感動しています。

そしてこれこそまさに、“今に生きる”心のありかただと思います。
お坊さんが苦行をするのは、つねにこのような心境でいられるようになることを潜在的に望んでいるからだと思います。

私はネガティブになりそうになったとき、この盲目の女性にシンクロしています。
そうすると、なんのヘンテツもない景色が、一変して鮮やかな景色なります。
ただ目が見えるということに対してワクワクし、有り難い気持ちでいっぱいになります。

今に生きるとは、盲目から回復した直後のような、喜びにあふれた心を持続するということです。
つねにこのような歓喜の気持ちを忘れないということです。
今世で盲目になったことがなくても、私たちは過去世で必ずそのような体験をしています(魂は進化する
鉱物や植物は人間のようにものは見えていませんし、動物にも盲目状態で生きているものはたくさんいます。
つまり人間であれば、だれでもこの気持ちを再現することができるのです。

いつもこのような歓喜の気持ちでいるためには、“今がどれだけ有り難いか”を思い出すのがコツです。
一寸先は闇といいますが、私たちの“今”はとても危ういバランスのうえに成り立っています。
目玉ひとつ、携帯ひとつ、サイフひとつなくすだけで、たちまち平穏な日常がくずれてしまいます。
家族の健康、恋人の態度、地盤の状態、どれかひとつでも乱れれば、たちまちにして地獄のような世界になってしまいます。
つまり、今、こうして普通にブログが読めるのは、奇跡的にバランスのとれた、とても“有り難い”状態なのです。

私は、歩いているときウツな気分になったら、歩けなくなってしまったときことを想像します。
そうすると、「歩けることはなんてすばらしいんだ!」と、歩けることの有り難さを思い出し、歓喜することができます。
体調不良でウツな気分になったら、もっと酷い病状になってしまったときのことを想像します。
そうすると、今ていどの症状ですんでいることの奇跡を思い出し、感謝することができます。
上司にムカついたら、上司がヒトラーのような暴君になってしまったときのことを想像します。
そうすると、上司がそこまで暴君でないことの有り難さを思い出し、感謝することができます。
同僚にムカついたら、同僚が悪魔のようなイジメっ子になってしまったときのことを想像します。
そうすると、同僚がそこまで悪魔的な人間ではないことの有り難さを思い出し、感謝することができます。


もし誰かに
「100万円あげるから、あなたの耳をくれ」
「一千万円あげるから、あなたの腕をくれ」
「一億円あげるから、あなたの胃をくれ」
と言われたら、あなたはどうするでしょうか?
じゃああげる、という人はマレだと思います。
ほとんどの人が一億円つまれてもイヤだと思うのではないでしょうか?
つまり私たちは、一億円にも代えがたいモノを、今現在もっているということなのです。
今に生きられない人は、このことを忘れています。
「自分は足りないものだらけだ。自分には何もない」
という人も、
“もしも今、目がなくなったら”
“もしも今、舌がなくなったら”
と想像力をはたらかせれば、いかに自分がすごい宝をもっているかが実感できるはずです。


365日24時間、私たちはつねに有り難いモノに囲まれた、とても恵まれた存在です。
それなのに、不満や不安や心配ばかり感じていると、
「こんなに恵まれているのに、まだ足りないのか」
「それなら自分がどれだけ恵まれているか、思い知らせることにしよう」
と、自分の潜在意識(=神)が事故や災害をおこしかねません。
事故や災害でモノを失えば、今の自分がどれだけ恵まれていたかを再認識できるからです。
しかしできればそんな方法で再認識はしたくありません。
そうならないためには、“今”の自分がどれだけ有り難い状態におかれているのかを思い出し、感謝することが大切なのです。



●今の自分で完璧だ!

なかなか今に生きれない人は、

「今の自分は完璧ではない」
「今の自分は人として未完成だ」

という思いがどこかにあると思います。
だから、

「今の自分はまだ人間力がたりない。もっと人間力をつけなければダメだ!」
「今の自分はまだ徳がたりない。もっと徳をつめまなければダメだ!」

と自分を責めて、自己嫌悪におちいりがちです。
このような人はいつまでたっても自己嫌悪から逃れることはできれません。
なぜなら人が“完璧”になれる日など永遠にやってこないからです。
だから
「まだ人間力がたりない…徳がたりない…私はダメ人間だ…」
と、永遠に自己嫌悪することになってしまいます。

「今の自分はまだ完全に健康じゃない。もっと健康にならなければダメだ!」
「今の自分はまだ前世のカルマが残っている。もっとカルマをへらさないとダメだ!」

という人も、永遠にダメだダメだと自分を責めつづけることになります。

完全に健康になれる日など永遠にやってきません。
どんなに健康な人でも、肉体的、精神的に数%はおかしなところがあります。

完全にカルマがなくせる日も永遠にやってきません。
なぜなら私たちは今も、毎日のようにカルマを作り続けているからです。

徳が完璧になる日も永遠にやってきません。
なぜなら人は神にむかって永遠に成長しつづける存在だからです。


永遠に完璧にはなれないということは、逆に言えば“すでに完璧な状態にある”ということです。
永遠に完成されないということは、見かたをかえれば、すでにその状態が完成形だということです。

ウォルト・ディズニーは「ディズニーランドは永遠に完成しない」ということばを残しています。
これはディズニーランドは永遠に成長しつづけるという意味です。
かといって今のディズニーランドがダメな未完成品なのかといえば、そんなことはないと思います。
ディズニーランドは今の時点で、じゅうぶん完成していますよね。

人間もこれと同じです。
私たちは未完成でありながら、今の時点でじゅうぶん完成しています。

神はミスをしません。
神はつねに完璧です。
完璧な神が、ダメな失敗作をつくるはずがありません。
神の最高傑作である私たちは、すでに完璧な作品です。
“未完成品”という一個の芸術品だということです。



●霊主体従

「なかなか今に生きられない」
「今やるべきことに集中できない」
という人は、“物理的”なことだけが今に生きる道だとカン違いしていることがあります。
物理的なこととは、家事、勉強、仕事など、実際に何か行動することです。
しかし今に生きるとは、そのようなことばかりではりません。
むしろ物理的なことよりも、“思考的”に今に生きることのほうが優先です。
思考的に今に生きるとは、感謝したり、人の幸せを願ったり、ポジティブな言葉を思ったり、頭のなかで今に生きるということです。

いくら勉強や仕事をがんばっても、思いがネガティブでは今に生きているとはいえません。
今に生きるためには、まずはじめに“思いで今に生きる”ことが必要です。
物理的な行動はその後です。
まず思いを整えたあと、はじめて現実でも今に生きられるようになります。

人間はおよそ2つの要素にわけることができます。
ひとつめは、目に見えない波動的な要素(思い・魂・神など)
ふたつめは、目に見える物質的な要素(モノ・からだ・行動など)です。

順番としては、まず波動(神の思い)があって、そのあとに物質(モノ)がうまれます。
何かしようという“思い”が脳におこって、そのあとに体がうごき、行動になります。
逆はありません。

つまり宇宙には、
1、波動
2、物質(行動)
という“順序”があるのです。
この順序を“霊主体従(れいしゅたいじゅう)”と言ったりします。

今に生きるためには、この順序を間違えないことが大切です。



●愛が一番

今に生きられないとき、その人は心が“エゴ”な状態になっています。

つまり、
「心配だ」
「不安だ」
「ムカつく」
「恥ずかしい」
「変に思われたくない」
「わたしはダメ人間だ」
というように、自分のことばかり考えている状態になっているのです。
エゴは、真実とは真逆の方向です。
だから心が苦しくなります。

このような苦しみから抜け出すためには、逆位の波動で押し返すことが大切です。
エゴの反対は“愛”です。
つまり愛の波動(=ことば)で押し返せばよいということです。

たとえば恋人が死んでしばらくたっても今に生きられないというとき、その人はエゴな心になっています。

「つらい」
「悲しい」
「さびしい」
など、自分のことにばかり意識が集中している状態です。
当人はその気持ちを愛だとカン違いしていますが、それは本当の愛ではありません。
ニセモノの愛(エゴ)です。

しかしそこで、
「死んだ彼がこんな私を見てどう思うだろうか。
 きっと心配するに違いない。
 わたしのネガティブな思いにひっぱられて、天国にいけなくなるかもしれない。
 自分のことばかり考えるんじゃなくて、彼の幸せも考えよう。
 彼を安心させるために、ポジティブな思いを発信しよう!」
と、“本当の愛”に目覚めたらどうでしょうか?
とたんに苦しみから解放され、今に生きられるようになると思います。
愛の波動が、エゴな波動を吹きとばすからです。

私はネガティブな気分になったとき、
「ここで私が苦しむと、他の人たちにも同じ思いを味あわせることになる(人は運命共同体公害人間になるな
 みんなに苦しい思いはさせないぞ! 私はみんなへの愛に生きるんだ!」
と思っています。
そうすると、かんたんに心の苦しみから抜けだせます。
愛の波動は強力です。

愛がないまま「ありがとう」を連発したり、
「大丈夫、大丈夫…」
「勇気、勇気…」
などと思っても効果はうすいです。
それらは自分のために向けられた言葉だからです。

まずはじめに「愛」を思うことが大事です。
そうすると、そこから、感謝・勇気・思いやりなどの思いがうまれます。

愛からうまれた感謝は強いです。
愛からうまれた勇気は強いです。
愛からうまれた思いやりは強いです。

逆に、愛なき感謝は弱いです。
愛なき勇気は弱いです。
愛なき思いやりは弱いです。

苦しみを癒すには、“愛”という薬しかありません。
愛を切らせたとき、苦しみがうまれます。
苦しみは、愛が不足しているサインです。

愛は他から与えてもらうものではありません。
自分で創りだすものです。

お手本は神様です。
神様は一円ももらわず、光、空気、食物などを私たちに与えてくれています。
「わたしは愛されてないから、愛なんて湧いてこない」
などとケチくさいことは言いません。
神は愛そのものです。
だから神の愛は無限なのです。

そして私たちは神様です。
だから私たちの愛も無限のはずです。

愛はこの世でもっとも崇高な波動です。
愛のパワーにまさるものはありません。



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