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表面的しあわせと“実際の”しあわせ

2013.09.06.20:40

●反射で止まらない

しあわせには2種類あります。
“表面的しあわせ”と“実際のしあわせ”です。
表面的しあわせとは、財産・地位・美貌など、反射的に「幸せそうだ」と感じることです。
実際のしあわせとは、現実に、リアルに、実感として感じる幸福感のことです。

ヒトは反射的に、
“金もち→しあわせ”
“有名人→しあわせ”
“イケメン・美人→しあわせ”
“社会的成功→しあわせ”
と感じるしくみになっています。
だから、表面的に幸せな人をみると、
「わたしは毎日ポジティブ思考して、こんなにがんばってるのに、なかなか幸せになれない。
 なのにあの人たちは人間力が低そうなのに、しあわせそうだ……ウジウジ」
と、嫉妬したりネガティブになったりしてしまいます。
もちろん、あたまでは「金持ちイコールしあわせじゃない」「有名人イコールしあわせじゃない」と分かっています。
でもウジウジ嫉妬しているうちは“社会的成功者→しあわせ”という反射的感情にとらわれています。
なぜなら、不幸な人をうらやむ人はいないからです。


またこのブログについて、
「ブログが正しいなら、モモエはもっと有名になって、億万長者になっているのでは?」
と思ったり、
「Aさんという社会的成功者は、モモエとちがうことを言っている。
 Aさんの言ってることはちょっと納得できないけど、モモエより有名だし億万長者だ。
 どっちが正しいんだろう…」
と魔酔う人もいると思います。


また、長く成功している有名人が、宇宙の真理から外れたことを言っているのを見て、
「なんであの人はあんな考えかたで成功しているんだろう」
「そのうち不幸になるんだろうか」
「前世でよっぽど良いことをしたんだろうか」
「それとも、実はあの人の考えかたが正しくて、自分の考えのほうがまちがっているんだろうか……」
と疑念をいだく人もいると思います。

またばくぜんと
「イケメン人気アイドルの○○は、ブサイクで無名のオレより幸せだ」
「一流企業で高所得の同級生は、中卒で低所得のオレより幸せだ」
「マイホームがあって、子どもが東大のおとなりさんは、オンボロアパートで、大学に落ちたウチより幸せだ」
と思っている人もいると思います。

これらの人は、
“表面的しあわせ=本当のしあわせ=うらやましい!”
という反射の段階で止まってしまっています。
謎解きゲームの第一問でつまずいている状態です。
だから心が苦しくなります。

反射は動物でもできる、原始的な行為です。
しかし人間はそこから一歩すすんで、深く考えることができます。

財産・地位・美貌など、表面的なしあわせに恵まれていても、“実際の感覚”ではしあわせでないことはよくあります。
心理調査でも、
・アメリカ人の所得は50年で2.5倍になったが、実際の幸福感はかわっていない
・高所得者リストの40%が、平均的アメリカ人よりも幸福感が低い
などなど、表面的しあわせと実際のしあわせがあまり関係ないことは数多く報告されています。
(極度の貧困や虐待など、極端な状況はのぞきます)

この世には正負の法則がありますから、タダで良い思いはできません。
それなりの代償をはらう必要があります。
タダで手に入るものはないのです。
たとえば、地位、財産、美貌など表面的しあわせが大きくなればなるほど、それを失う恐怖、失ったときの落胆も大きくなります。
逆になにも持っていなければ、失うものがなにもないので、恐れも恐怖もありません。

表面的しあわせにともなう幸福感は、
「わたしは一流企業の社員だ! エッヘン!」
「わたしは美人よ! ホホホ!」
「わたしはスゴイ仕事をしているんだ! ヘヘン!」
というように“優越感”というネガティブな波動まじることがあります。
優越感にひたるキャラは、じきにイタイめをみると相場が決まっています(キャラクター(納得)の法則)
優越感は麻薬的な快感です。
そのような快感にたよって生きていると、いざそれを失ったとき、ウツになったり自殺してしまうおそれがあります。
これも、“表面的しあわせ”につきまとう代償だといえるでしょう。

※「以前の記事で正負の法則はないと書いていたのに…、いったいどっちなんだ!」と疑問に思われた方は、納得の法則とファジーの法則をいまいちどお読みください。



●“実際の幸福量”を計算する

しあわせについて考えるときは“実際の幸福量”を計算することが大事です。
実際の幸福量とは「実際の幸福感から不快感を引いた量」です。

反射では“フリーター”よりも“大会社の社長”や“総理大臣”のほうがしあわせだと感じます。
しかし、よくよく考えると必ずしもそうでないことがわかります。
フリーターなら、重い責任もなく、自分のことだけ考えて、悠々自適に生きていけます。
しかし大会社の社長となれば、子会社、孫会社、社員とその家族……と、多くの責任を負わねばなりません。
わずかな判断ミスで、みなを路頭に迷わすことになります。
クレーム、裁判など、イヤなトラブルも一手にひきうけねばなりません。
かなりのストレスだと思います。

“社会的成功→しあわせ”というなら、日本で一番しあわせなのは総理大臣ということになりますが、そんなことはありませんよね^^;
たしかに「自分は総理大臣なんだ。エッヘン」という幸福感はあると思いますが、それ匹敵するするくらいの不快感もあると思います。
まず総理にはプライベートらしいプライベートがほとんどありません。
24時間ほぼ観視状態で、行動はが分きざみで新聞にのってしまします。
国民は政治や経済のことなどろくに勉強もせず、選挙にもいかないくせに、なにをやっても文句をいいます。
たとえ正しいことをやろうとしても、みんな自分の利益ばかり主張するので、なかなか思うとおりにできません。
実際、リアルに、総理の心にシンクロしてみると、その不快感はハンパないと思います。
福田さんがキレ気味でやめたり、安倍さんが病気になってしまったのもうなずけます。
総理であることの幸福感から、それら不快感をさし引けば、人によってはマイナスになることもあると思います。
その意味では、実際の幸福量が総理より多い派遣社員やフリーターの方はたくさんいらっしゃると思います。

またスポーツ選手をうらやむ声もよく聞かれます。
テレビのなかのメダリストやヒーローインタビューを見て、
「才能のあるやつはいいよな~」
「年俸○億円とか、しあわせだよな~」
とうらやんだり、
「オレには才能がなかった…」
とネガティブになる人もいると思います。
たしかに「オレはチャンピオンだ」「メダリストだ」という幸福感はあると思います。
しかし彼らがしあわせを感じられるのは、一時的なことです。
あとの時間のほとんどは辛く厳しい特訓です。
逆に負けたときはドン底気分で、生活費すらこと欠くこともあります(実際は負け率がダンゼン高い)
それに、ケガや病気は100%自己責任です。
なぐさめられるどころか責められるもあります(泣きツラにハチです)
休むときも学生やサラリーマンのように「やったー、休める、ラッキー」などという感覚はありえません。
「うかうかしてたら席がなくなる」「ライバルに抜かれる」「はやく復帰しないと…」と、つねに戦々恐々です。
スポーツ選手としての幸福感から、これらの不快感をさし引けば、いったいどれほど残るでしょうか。
むしろ趣味でスポーツを楽しんでいる人のほうが、実際の幸福感が多いこともあると思います。

皇帝ナポレオンは誰もが知る英雄ですが、当人は
「わたしの人生で本当にしあわせだったのは数日しかなかった」と言っています。
ナポレオンの人生を知り、彼の心に深くシンクロして、“実際の幸福量”を計算すれば、
「オレはダメ人間だ……。オレもナポレオンのような英雄になりたかった」
などとは思えないはずです。

反射の魔酔いから抜けだして、論理的に考える(実際の幸福量を計算する)と、表面的なしあわせをうらやむことがなくなります。
だから他人をうらやんでネガティブになることがなくなります。

実際の幸福量では、
トップアイドルよりしあわせな主婦
東大卒よりよりしあわせな中卒
社長よりよりしあわせなアルバイト
億万長者よりよりしあわせな生活保護者
など、ザラにいると思います。

いくら表面的にしあわせに見えても、その人が“実際”どれだけ幸せを感じているかは誰にもわかりません。
自分がそうであるように、だれしも見えないところで、けんか、トラブル、病気などを抱えているものです。
世にいうカリスマ成功者や聖人のような人でも、“実際”には色々と不快な思いをしていたりします。
ガンばりすぎの成功者が、若くしてガンなどにかかるのを見かけますが、この点でもしあわせいついて考えることが大切です。



●人によって人生の難易度がちがう

魂年齢の幼い人は、わりとカンタンに成功できてしまうことがあります。
たとえば小学生に大学生の勉強をあたえても、むずかしすぎて勉強になりませんよね。
小学生には小学生なりの、カンタンなカリキュラムが必要です。
つらすぎて潰れてしまわないよう、人生の難易度をカンタンにしてあげる必要があります。
だから人間力が低くても、表面的な幸せをゲットしやすくなっています。
幼い子には、てきどに甘いおかし(表面的しあわせ)をあげなければなりません。
じゃないと、グズって泣きだしてしまいます。

魂年齢の幼い人は、人間力がありません。
だから少しのことでもネガティブになって苦しんでしまいます。
だから、いくら表面的しあわせに恵まれていても、実際的なしあわせは少なかったりします。
かたや人間力の高い人は、表面的には平々凡々でも、とてつもなく幸せを感じていたりします。
粗衣粗食の聖人が、豪華絢爛の愚者よりも、実際的な幸福感が多いのは、かんたんに想像できると思います。

こう見ると、人はどこまでいっても平等だということがわかります。

もちろん、すべてがこのケースにあてはまるわけではありません。
魂年齢の高い人がカンタンな人生をおくるケースもあります。
表面的しあわせに恵まれつつ、実際的なしあわせにも恵まれている人もいます。
わたしたち(神)は色んなバリエーションで人生ドラマを楽しみたいようです。



●なにが君のしあわせ?

わたしは以前まで一部上場の有名企業につとめていましたが、“実際の”しあわせを求めた結果、辞める流れになってしまいました。
だから今は、
「わたしは一流企業のデザイナーよ!」
「わたしは年収○○円よ!」
といった、表面的しあわせはありません。
しかし、実際のしあわせでいえば、今は昔の百倍以上はしあわせだと思います。
よもや、このような幸福感が存在するとは想像もできなかったほどです。

私は表面的に見ると、ごくごく普通の一般人です。
大会社の社長でも、億万長者の有名人でもありません。
だから、
「わたしはベンツを10台も持っている!」
「途上国に○億円の寄付をした!」
「わたしの発明が世界を変えた!」
といった、爆発的な幸福感はないと思います。
そのかわり、これといった不快感もありません。
ケンカ、もめごと一切なし。
たいした責任も負ってないので、いつもリラックスしていられます。
有名人のように叩かれたり、嫉妬されることもありません。
まさにストレスフリーの生活です。
まさに“今が天国!”といった感じです。
実際の幸福量は、ヘタな大成功者よりも多いと思います(ちょっとゴーマンでした…スミマセン(^_^;))

とはいえ、人それぞれ個性があります。
わたしのような、おだやかで平凡な人生を望まない人もいるでしょう。
表面的なしあわせを追い求めて、エキサイティングに生きたい人もいるでしょう。

また、私はたまたま会社をやめるストーリーになりましたが、
“実際のしあわせを求めた結果、一流企業に入社した”
“実際のしあわせを求めた結果、有名人になってしまった”
という人もいらっしゃると思います。

どちらにせよ、“実際の”しあわせは、おろそかにしないことが大事だと思います。
そのためには「なにが君のしあわせ? なにをして喜ぶ? byアンパンマンのうた」
と、自分の魂のに問いかけ、つねに内観しつづけることが必要だと思います。


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愛を感じる

2013.09.23.13:52

今に生きるためには、愛が一番です(愛が一番 Ctrl+F検索)
イヤな気分になったときは、愛不足のサインです。
愛が不足すると、そのすきにエゴが入りこんできます。
でも、そこで愛を出せば、またポジティブな気分にもどることができます。
つまり魂は、愛不足→愛を出す→愛不足→愛を出す…というリズムゲームであそんでいるのです。
これは自然法則なので「私には愛がない…」と自己嫌悪するのはナンセンスですね。

愛を出すにはコツがあります。
それはまずはじめに“愛を感じる”ことです。

なにもしてもらってないのに「感謝(=愛)してよ」といわれても、なかなかできないと思います。
なにもしてくれない人に「いつもありがとう」と言うのも、むずかしいと思います。
でも、なにかしてもらったときは、自然に感謝することができます。
プレゼントをもらったときは、カンタンに「ありがとう」ということができます。
それは魂に“愛を感じると愛が出る”システムがそなわっているからです。
これはいわゆる条件反射です。
愛を感じれば、反射で自然に愛がでます。
だから変に力まなくても、ラクラク愛に生きることができます。

「自分はひとりだ。だれからも愛されてない」
「わたしは犯罪者だ。みんなから嫌われている。守護霊もあいそつかしているだろう。だから不幸なんだ」
という人でも心配いりません。
わたしたちはみんな神の子です。
神様はだれでも等しく愛をあたえてくれます。
もっと神様を信頼して、安心してください。

太陽は「暑い」「紫外線が悪い」と文句を言われても、たえまない愛を私たちにそそいでくれています。
地球はいくらイタめつけられても、無償で豊かな資源をあたえてくれています。
今つかっているパソコンやケータイは、そうした自然霊の出す愛の波動でみちています。
こうして文字が読め、パソコンができるのは、体細胞(自然霊)の愛が、からだを動かしているからです。
自由な時間をもち、自由に物事を学べるのも、だれかの愛がそうみちびいてくれたからです。
このような状況はあたりまえではありません。
誰かの意図的な愛があってこその状況です。
それは守護霊だったり指導霊だったりご先祖様だったりします。

私たちは一分一秒あふれるような愛をそそがれています。
そのことに、まず“気づく”ことが大事です。
その愛を“感じようとする”ことが大事です。
そうすれば自分のなかから自然に愛(感謝)があふれてきます。

愛を感じる対象は何でもOKです。
思いつくかぎりのモノや状況から愛を感じます。
歩いているときウツ(=エゴ)になったら、地面から愛を感じます。
空を見上げて、大いなる愛を感じます。
胸いっぱい深呼吸して、大気にみちた愛を吸収します。

歯みがきがダルいな~と思ったら、歯ブラシから愛を感じます。
洗濯がダルいな~と思ったら、洗濯物から愛を感じます。
すると、
「ありがたいなあ」
「わたしはなんて恵まれているんだ」
「クヨクヨ波動汚染なんかしてられない」
「この愛をかえさなきゃ!」
という愛の波動がわいてきます。

愛を感じることがむずかしければ、“愛を感じようとする”だけでOKです。
まず“愛を感じようとすること”
これをやれば、24時間ラクに今に生きられます。



●鬼にの目にも愛

相対性で考えれば、どんなものにも愛を感じられます。
イジワルな人、思いやりのない人にも愛を感じることができます。
たとえば私はイジワルな人をみると、
「この人は、ずいぶんやさしくなったなぁ」
と思います。
その人の魂に愛のいぶきを感じます。
なぜならその人の前世をイメージすると、今とは比較にならないくらいのイジワルっぷりが見えるからです。

人はだれでも成長する生きものです。
どんなに愛のない人でも、昔よりは愛が育っています。
たとえば今世で言葉の暴力をふるう人なら、前世は肉体的な暴力をふるっていたはずです。
戦時中なら、部下に体罰しまくる鬼軍曹だったことでしょう。
中世ヨーロッパなら、魔女狩りで拷問殺人する鬼役人だったことでしょう。
わたしはイジワルな人をみると、そのような情景をありありとイメージします。
すると、
「この人はずいぶんやさしくなったなあ」
「むかしにくらべれば、まだ愛があるなあ」
「今世では前世ほどひどい体罰をくわえないでくれてありがとう」
と、心の底から愛(感謝)を感じることができます。
このような習慣をもつと、人生の苦しみ(=エゴ)がグッと減ります。
愛はエゴを相殺するからです(逆位の波動


●愛をめぐらす

たとえばわたしは料理中に「しんどい」「めんどくさい」とネガティブ気分がでてきたら、すぐに食材や道具から愛を感じます。
私たちのために奉仕してくれている野菜やマナ板の愛を感じます。
すると「ありがとう」という感謝(愛)のこころがわいてきます。
それを相手にかえすことで、愛の循環がうまれます。
自分とモノのあいだで愛がめぐります。
すると血のめぐりならぬ愛のめぐりが良くなります。
血のめぐりを良くすればからだが健康になるように、愛のめぐりを良くすれば心が健康になります。
心が悩んでいるときは、愛のめぐりが悪くなったときです。
そんなときは、いま触っているもの、目にみえるもの、目には見えない自然霊など、思いつくかぎりのものと愛をめぐらせてみてください。
そうすれば、だんだん心が健康になっていきます。


●愛は味覚を変える

わたしは愛を感じるようになってから、食べ物の好き嫌いがなくなりました。
前は食べられなかったものでも、その食材の愛を感じれば自然に「ありがとうございます!ぜひいただかせて頂きます!」と思えてしまいます。
吐き気をもよおしていたものですら、難なく食べられるようになっています。
愛は味覚さえも変えてしまうのです。

人と同じように、食材にも命があります。
命あるものを「これニガテ」「ちょっとおなかいっぱい」くらいの理由で捨ててよいものでしょうか?
相手の愛を感じれば、そんなことはできないと思います。


わたしは、パーティーなどで大量のザンパンを目にすると、つい怒りや罪悪感を感じます。
しかし食材の気持ちになってみれば、むげに捨てられるうえ、ネガティブな波動(罪悪感など)をあびせられては、たまったもんじゃありません。
なので私は、
「捨てることになってしまって申し訳ありません。
でもおかげで豊かで楽しいときをすごすことができました。
この世に生まれてきてくださって、ありがとうございます」
と、謝罪にくわえて、よろこびと感謝の波動をおくるようにしています。

人づきあいでは体に悪そうなものをふるまわれることもあります。
しかし、どんなものにも神の愛はあふれています。
油にも砂糖にも添加物にも神の愛がみちています。
それを感じれば
「油が悪い、砂糖が悪い、添加物が悪い」
などとネガティブな波動を出さずにすみます。
もちろんできるだけ体に悪いものを食べないことは大切です。
しかし神のシナリオで食べる運命にあるのなら、その状況を否定せず、肯定することが大事です。
だからわたしは
「おかげさまで安く手軽に食事を楽しむことができています。
豊かで楽しい人生を与えてくださってありがとうございます(^_^)」
と、愛の心でおいしくいただいています。

とはいえ、極端にカラいもの、極端にニガいもの、アルコール・アレルギー・ゲテモノなど、どうしても無理なものもあると思います。
無理をすることは、自分への愛を欠くことです。
ザンパンの愛を感じすぎて、残りものを食べすぎることも、自分への愛を欠くことです。
自己愛と他者愛のバランスゲームも忘れないでくださいね。



●体細胞の愛を感じる

わたしは体調不良にみまわれたら、すぐに体から愛を感じます。
体に痛みを感じたら、すぐに体細胞から愛を感じます。

もちろん健康なときも感じていますが、不健康なときは“愛を感じようキャンペーン”期間です。
だからより念入りに愛を感じ、愛を返し、愛のめぐりを良くしています。
そうすれば、からだに愛のエネルギーがいきわたり、回復が早くなります。

体細胞はわたしたちのために昼夜問わずはたらいてくれています。
偏食、夜更かし、ネガティブ思考などでイタめつけられても、私たちのために一生懸命はたらいてくれています。
その愛を感じれば
「ここが悪い、あそこが悪い」
「前よりマシだけど、まだここが悪い…」
「シワが…シミが…」
などの文句はなくなります。
逆に「いつもわたしのために働いてくれてありがとう」
「体細胞さんにムリさせないよう、悪い習慣をあらためよう」
と、愛をかえせるようになります。
その結果として、自然に美しく健康になれてしまいます。

体細胞はできるかぎり私たちを、美しく健康にたもとうとがんばってくれています。
だから「また髪がぬけた…」「またシワがふえた…」などと不満を思うと、自然霊の声がきこえる人には
「わたしたちは、これでも精いっぱい、からだの修復につとめています!」
といった体細胞の声がきこえるようです。

日ごろ愛を感じている人でも、愛に限界はありません。
もっともっとガンガン愛を感じまくって、ついには愛と一体化して、神様(のような人)になってしまいましょう!



●愛を感じれば掃除もラクラク

わたしはモノを粗末にしたり、分別せずにポイしたりすることができません。
こわれたモノも、神の美観のゆるすかぎり、修理して使います。
これは無理してそうしているのではありません。
モノの愛を感じると、自然にそうなってしまうのです。

愛を感じれば、モノをテキトウに扱うことができなくなります。
自然に丁寧にあつかえるようになります。
だから無理に努力しなくても、紳士淑女的な優雅な動作になってしまいます。

わたしは以前まで掃除がニガテでしたが、愛を感じることで、自然に掃除ができるようになりました。
モノをグチャグチャにしておけるのは、モノの愛を感じていないことが大きな原因だったのです。
愛を感じれば、自然に整理整頓できてしまいます。
モノが心地よくいられるように、キレイに清潔にしてあげらるようになります。
モノにも心があります。だれだって乱雑にされたり、不潔にされるのはイヤなものです。

トイレなど不潔な場所も、相手の気持ちにシンクロして愛を感じれば、
「いつもありがとうございます!」
という気持ちになって、愛のパワーでラクラクお掃除できてしまいます。
もちろん、すべてのモノにカンペキな愛をかえすことは不可能です。
逆に、カンペキに掃除しようとすることは、自分に無理させることであり、自分への愛を欠くことになります。
バランスゲームに失敗した状態です。
プロの清掃業者は限りなく100%を目指したほうが良いでしょうが、それでも病的にならないように注意が必要ですね。

食事と同じく掃除も、自己愛と他者愛のバランスゲームです。

わたしたちは同時平行でたくさんのゲームをあそんでいます。
“愛を感じるゲーム”のほかに“バランスゲーム”であそんでいることも忘れないでください。



●小我の愛と大我の愛

小さな愛を感じすぎると“小我の愛”になります。
たとえば、ひとつひとつこまごました愛を感じすぎると、モノが捨てられなくなります。
そうすると家という大きなモノがゴミやしきになってしまいます。
でもそこで“大我の愛”になって、家という大きなモノの愛を感じれば「家さんを汚くしてはもうしわけないな」
と、ほどよいバランスでモノを捨てられるようになります。
さらに大きなモノ(地球や宇宙)の愛を感じれば、
「ごみ屋敷で波動汚染してはもうしわけないな」と、さらにいさぎよくモノを捨てられるようになります。
モノのない部屋は掃除の必要がないので、自然にキレイになってしまいます。

このように、愛には“小我の愛”と“大我の愛”の2つがあります。
どちらにもかたよることなく、両者のバランスゲームを楽しむことが大切です。



●合コンのたとえ

たとえば、男10人、女2人(わたし+美人A子)で合コンしたとします。

男性たちはA子にむらがって、わたしには見むきもしません。
わたしがガッカリしていると、ひとり私に話しかけてくれるBさんが現れました。
しかしわたしは「どうせお情けでしょ」とイジケたり
「A子がうらやましい…」と嫉妬したり
「わたしはなんでブスにうまれたんだ…」と劣等感をかんじたり
「A子め、いい気になりやがって…」と憎んだり
「こんな合コンこなきゃよかった…」と後悔したりしています。
Bさんの親切心(=愛)を感じず、自分のことばかり考えています。
こんなことをしてはBさんすら私のもとを去ってしまうでしょう。

ネガティブなとき、人はだれしもこの合コンと同じことをしています。

この世のありとあらゆるモノは、一分一秒わたしたちに愛をあたえてくれています。
わたしたちのために無償で奉仕してくれています。
なのにわたしたちは、それを感じず、不安、怒り、劣等感など自分のことばかり考えています。

悩み苦しみをなくすためには、このようなエゴ状態からぬけだし、Bさんたちの愛に気づくことが大切です。







ブログの読みかた ~ご質問の前に~

2013.11.16.15:02

ブログ読者のかたから、よくご質問のメールをいただきます。
しかしそのほとんどは、ブログを応用すれば解決できてしまうものです。

人の悩みは千差万別です。
人の数だけ悩みがあります。
同じ人でも、シチュエーションによって、悩みは細かく分かれていきます。
それら全てに、個別にお答えすることはできません。
ブログを読んで、あるていど自分で応用していただくことが必要です。

なにか悩みにぶつかるたびに、
「このばあいはどうすれば…」「このばあいはどうすれば…」と、ご質問されているようでは、永遠に悩みから抜けだせません。
そのようにならないためには“応用力”つけることが大切です。

多くの人が“自分の悩みだけは特別だ”“ブログを読んでも解決できない”と思われているようです。
しかしそのような悩みは、まずありません。
99%以上はブログを応用すれば解決できてしまう問題です。
この“応用”ができないかぎり、いつまでも人生に悩み続けることになります。

応用できるようになるためには、基本をしっかり“理解”していなければなりません。
教科書でもなんでもそうですが、一度読んだだけで、その内容を理解することはできません。
だから「ブログは何度も繰り返し読んでください」と書かせていただいています。
にもかかわらず、あまり読まずにご質問されるツワモノがたくさんいらっしゃいます(^_^;)
彼らの質問は、ちょっとブログを応用すれば解けるものばかりです。
しかしブログにたいする“理解”が足りないため、ブログに書いてあるそのままのことしか実行できず、ちょっとシチュエーションが変わると、とたんに「どうすれば…」ということになるようです。

理解とは“理解する・しない”の2択ではなく、バーセンテージの問題です(参考:ファジーの法則
ご質問されるかたも、ブログをまったく理解していないわけではありません。
ただ理解度(%)が低いだけです。
算数でも国語でも、基本の理解度が低いうちは、応用問題を解くことができません。
人生の問題もそれと同じです。

ではどうすれば理解度を上げ、応用力をつけることができるのでしょうか?
それにはブログの読みかたを知っていただく必要があります。

“読む”ことと“理解する”ことはちがいます。
読むとは文字どおり“ただ読む”ことです。
理解するとは“他人に空で説明できるようになるまで読みこむ”ことです。
ブログはぜひ後者の読みかたで読んでいただきたいと思います。

先生は参考書をよく理解していますが、それは“他人に教えるつもり”で読んでいるからです。
他人に教えるためには、自分がその内容をよく理解していなくてはなりません。
だから先生は参考書を読みながら、自然とあたまが“理解モード”になっています。
ただ読むのと理解モードで読むのとはまったく違います。
理解モードで読まない限り、その内容を“理解する”ことはできません。

ブログをただ“読む”のでは、理解度は上がりません。
「これをみんなに教えよう(そしてみんなを幸せにしよう)」というつもりで読まければ、理解度も応用力も上がらないのです。

テスト勉強するとき“ただ教科書を読むだけ”ということはないはずです。
「テストの質問に答えられるようになろう」というつもりで読むはずです。
質問に答えるということは、教科書の内容を説明する(教える)ということです。
きちんと説明する(教える)ためには、教科書の内容をきちんと理解しておかなくてはなりません。
だからテスト勉強するときは、自然とあたまが理解モードになっています。
ただ教科書を読んでいてもサッパリおぼえられませんが、テスト勉強として読むと、とたんに覚えやすくなるのはそのためです。
「ただ読む」のも「教えるつもりで読む」のも“読む”という行為は同じです。
しかしテストの結果は天地ほどの差がでます。

ブログを読むときは、ブログ試験があるとして、それで100点をとるつもりで読まれてみてください。
またはブログ講座があるとして、そこで先生をするつもりで読まれてみてください。
そうすれば自然と理解モードになって、理解度が急上昇するはずです。
それに比例して応用力も急上昇するはずです。
そうするとブログを応用して、どんな悩みも解決できるようになります。
だから人生に“悩む”ことがなくなります。

ブログには、いまの自分のと直接関係のない記事もあると思います。
しかし食わず嫌いせず、すべての記事に繰りかえし目を通していただきたいと思います。
なにとぞよろしくお願いいたします。


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実験する

2013.12.13.12:49

正しいと分かっていても、なかなか実行できないことがあります。
たとえば“無理はいけない”とわかっていながら、無理して勉強したり、仕事したり、節約したり…
なかなか無理がやめられないことがあると思います。

このとき、
「無理して頑張らないと、困ったことになるかもしれない」
と無意識に“恐れ”ていることが多いです。

そんなとき私は
「じゃあ困ったことになるか実験してみよう」
と思います。
実験的に無理することをやめるのです。
もしそれで困ったことにならなかったら、もうけものです。
今後の人生、無理にがんばる必要がなくなります。

この実験は、やる前から結果がわかっています。
ブログ読者の方なら、無理することが宇宙の理に反していることは分かっていると思います。
しかし「困ったことになるかも…」という“恐れ”から、なかなか無理がやめられません。
この恐れをなくすには“実験”という言葉が有効です。
なにごとも“実験”だと思えば、失敗を恐れずやりたいことがやりやすくなります。

たとえば「怒ってはいけない」とわかっていながら、つい怒ってしまうとき、
「怒って相手にダメージを与えないと、相手はいつまでたっても成長できず、困ったことになるかもしれない」
「怒りを見せつけてやらないと、相手はまた同じ失敗をくりかえして、こちらに迷惑をかけてくるかもしれない」
と恐れていることがあります。
そんなとき、
「じゃあ本当に困ったことになるか実験してみよう」
「怒らず、もっと上手い対応をし続けたらたらどうなるか、人生をかけて実験してみよう」
と思うと、怒らずスマートな対応をしやすくなります。

また余計な買い物をしそうなとき、
「これがないと困ったことになるかも」
と恐れていることがあります。
そのときも、
「じゃあ困ったことになるか実験してみよう」
と思い、買うのをやめると、たいてい困ったことにはなりません。

余計なモノが捨てられず、家がゴミゴミしている人も、
「これを捨てたら困ったことになるかも」
と恐れていることがあります。
そのとき、
「じゃあ困ったことになるか実験してみよう」
「今世はこの実験で棒にふってもかまわない」
と思って捨てると、たいてい困ったことにはなりません。


また、あれこれ心配してしまうとき、
「こうやってあれこれ考えないと、困ったことになるかも」
と恐れていることがあります。
そのとき、
「じゃあ、あれこれ考えるのをやめて、“今”に一点集中したらどうなるか実験してみよう」
と思うと、心配をやめて今に生きやすくなります。

また、この世は単なるバーチャルゲームですが、なかなかそうは思えないときがあります。
その裏には、
「そんなこと思ったら現実逃避になってヤバいんじゃないか」
「この世がバーチャルだなんて自分は頭がおかしいんじゃないか」
という恐れのあることがあります。
そのときは、
「じゃあ本当にヤバいことになるか実験してみよう」
「今までさんざん“この世は現実だ”と思い続けて、うまくいかなかったんだから、ためにしに“この世はバーチャルゲームだ”と思って生きてみよう」
などと思うと、人生をバーチャルゲームとして楽しみやすくなります。


不安、焦り、嫉妬、劣等感など、ほとんどの苦しみの裏には、
「困ったことになるかもしれない」
という“恐れ”があります。

心が苦しいとき、上の例を参考に“実験”という言葉を応用してみてください。
人生が楽になると思います。


また、なかには正しいと確信できず、実行できないこともあると思います。
たとえばブログの法則が実行できないとき、
「ブログが正しいとは限らない。このとおりにやって困ったことになったらどうしよう」
と“恐れ”ていることがあります。
そのときも、魔法のことば「実験してみよう」をとなえてみてください。
そうすると恐れをなくしやすくなります。

私も新しいアイデアをひらめいたとき、怖くてなかなか実行できないことがあります。
そのとき、
「ダメでもともと。とりあえず実験してみよう」
「うまくいったらもうけもの」
と思うと、勇気を出して実行しやすくなります。

これからブログの内容が深くなってきて(もしくは私の独自性が強くなってきて)、にわかに信じがたくなるかもしれません。
そのときは、それを信じたらどうなるか、ぜひ“実験”してみてください。



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法施

2013.12.28.15:11

以前のわたしは一生懸命がんばっているにもかかわらず、なかなか前に進めない状態でした。
おなじ失敗をくりかえしては、悩んだり落ちこんだりしていました。
それが地徳の足りないせいだと思った私は、知恵袋で法施をすることにしました。
法施とは仏法を教えることですが、ここでは“人間力アップ法”を教えることと解釈します。
つまり知恵袋で人間力をアップする方法を教えて、地徳をつもうと思ったのです。

もちろん私はエラそうに法施ができる人格者ではありません。
まだまだ未熟な人間です。
しかし知恵袋には、以前のわたしが悩んでいたことで、いまだに悩んでいる方いらっしゃいます。
未熟な私でも、軽くできそうな悩みがたくさんあります。
だから私は未熟ながらも法施をしていくことにしました。

仏教には、金品をほどこす“財施”
人間力を高める方法を教える“法施”
人をなぐさめる“無畏施”
…など、いろいろな徳のつみかたが紹介されています。

なかでも尊いのは法施だとされています。
それはそうですよね。
いくら財施や無畏施をしても、相手の人間力が低ければ、ほんとうの意味で幸せにすることはできません。
笑顔、ボランティア、治療…など、法施以外がもたらす幸せは、どれも一時的です。
一時的に幸せ気分にさせるだけです。

だから法施以外でつんだ徳は、それが返ってきても一時的な幸せに終わりがちです。
それは臨時収入、つかのまの名誉、ゆきずりの優しさ…などといったものです。
もちろんそれらも尊いですが、そのようなものにばかり頼るのは虚しいと思います。

いっぽう、法施のもたらす幸せは永続的です。
法施で相手の人間力を高めてあげれば、その人自身の力で幸せになれるようになります。
寄付をしなくても、その人自身の力で豊かになれるようになります。
なぐさめなくても、その人自分の力で立ち直れるようになります。
そして、その人自身が法施をして、他人を幸せにできるようになります。
そうなると、その人は自分で徳をつめるので、他人の助けがいらなくなります。
今まで他人からエネルギーをもらわなければならなかったのが、自分でエネルギーをつくれるようになります。
さらには、それを他人にあたえられるようになります。
そうなると、その人は太陽になります。
自分でエネルギーをつくり、それを他人にあたえる、自給自足の太陽になります。

だから法施でつんだ徳は、太陽のように自給自足で永続的な幸せになって返ってきます。
事実、私が特に悩みのない慢性的幸福状態になったのは、法施を日課にしてからです。

とはいえ、この世はバランスゲームです。
法施ばかりではバランスが悪いです。
たとえば餓死しそうな人に、
「もっと人間力をあげなさい…」
とか法施しているばあいではありません。
そのような人には、とりあえず物施が必要です。
または大ケガをした人に、
「あなたのケガは因果応報で…」
とか法施をしているばあいではありません。
そのような人には、とりあえず応急処置(体施、物施など)が必要です。

寄付・笑顔・はげましなど、法施以外の善行がもたらす幸せは一時的ですが、これらは人を感動させ、
「自分も何かお返しがしたい」
「わたしも、あんな人になりたい」
と感化する効果があります。
つまり法施以外の善行にも、一種の法施の効果があるのです。
だから法施以外の行為も大切です。
いろんなことをバランスよくやっていくのが良いと思います。



●先生キャラ
私は知恵袋でギブギブを教えはじめてから、さらにギブギブがうまくなりました。
それはギブギブを教えたことで、あらためてギブギブのことを強く意識できたからです。
またギブギブについての理解を、より深めることができたからです。
“教える”ことをしなければ、こうはならなかったと思います。

また、他の大きな理由に“キャラクターの法則”があります。
つまり、
「ギブギブを教えている人(キャラ)が、ギブギブできないなんてありえない」
というキャラ意識がはたらいたため、ギブギブがうまくなったのです。
もちろんギブギブだけでなく、
「“今に生きること”を教えているキャラが、今に生きられないなんてありえない」
「“波動汚染はダメだ”と教えているキャラが、波動汚染するなんてありえない」
など、どんなことにも当てはまります。

キャラクターの法則は強いです。
この法則を利用すると、かなり人生がラクになります。

わたしは以前、自分のことを“生徒キャラ”だと思っていました。
自分は人に何か教えられるような人間ではなく、エライ人から教えられる一方の未熟な生徒だと思っていました。
法施をするなんて、まだまだ先のことだと思っていました。
しかし知恵袋を日課にしたことによって、わたしは早々に“先生キャラ”になってしまいました。

わたしは先生といえるほどの人格者ではありませんが、人に何かを教えるということは、いちおう先生ということになります。
学校の先生がみんな人格者かといえば、そんなことはありません。
先生だって欠点だらけです。
それでも、いちおう先生はつとまっています。

料理の先生になると、
「料理の先生なのに、料理がヘタなんてありえない」
というキャラクター意識がはたらきます。
だから料理への意識が高くなり、自然と料理がうまくなります。
たとえば一年間、料理教室で生徒をやったばあいと、先生をやったばあい、どちらがより深く料理を体得できるでしょうか?
それはもちろん先生をやったばあいだと思います。

それと同じで“不安と悩みをなくす方法”の先生になれば、“不安と悩みをなくす方法”への意識が高くなり、“不安と悩みをなくす”のがうまくなります。
たとえば一年間、生徒として“不安と悩みをなくす方法”を読んだばあいと、先生として“不安と悩みをなくす方法”を書いたばあい、どちらがより深くそれを体得できるでしょうか?
それはもちろん先生のほうだと思います。

先生キャラになることは、悩みをなくすための必須条件だと思います。
釈迦、キリスト、守護霊、指導霊といった神に近い魂は、だいたい先生キャラです。
神様は先生キャラそのものです。
私たちの最終的な目標は神様ですから、わたしたちは最終的に先生キャラをめざしているといえます。

しかし宇宙は永遠ですから“最終”はありません。
いつでも“今が最終”です。
だから“今”先生キャラにならなければ、永遠になれる日はやってきません。

とはいえ先生なら何を教えてもよいというわけではありません。
料理がうまくなりたいのにヨガの先生になってもしょうがありません。
料理がうまくなりたいのなら料理の先生になるのが近道です。
それと同じで、悩みをなくしたいのなら、悩みをなくす方法の先生になるのが近道です。



●“今”から先生!
本やブログをいくら読んでも悩みが絶えない人には共通点があります。
それは“人の悩みをあまり解決していない”ということです。

「自分の悩みは解決したいが、人の悩みはあまり解決していない」
というキャラを、みなさんはどう思うでしょうか?
そのようなエゴキャラは、どのような運命になるでしょうか?
それはみなさんの納得するような運命になります。
たとえば、
“いくら勉強しても、なかなか悩みがなくならない”
“いくら神を拝んでも、なかなか悩みがなくならない”
…といった感じだと思います。

「自分の悩みも解決できないのに、人の悩みを解決できるはずがない」
と思われるかもしれませんが、それはカンペキ主義※におちいっています。
人の悩みをカンペキになくすことは、どんな聖人にもできません。
釈迦やキリストにもできません。
だからカンペキを求めるのはナンセンスです。
自分にできる範囲のことをしようとするのが大切です。

物理の先生は物理のことをカンペキに知っているわけではありません。
むしろほとんど知りません。
しかし先生はつとまっています。
地理の先生は、世界の地理をカンペキに知っているわけではありません。
むしろほとんど知りません。
しかし先生はつとまっています。

カンペキになる日を待っていては、永遠に先生などできません。
「もっと人間力がついてから…」
などと思っているうちは、永遠に先生はできません。
なぜなら人は永遠に未熟だからです。
だから“今”先生をやらなければ、永遠に先生はやれません。

人はいつでも、どの段階でも先生になることができます。
自分より魂年齢の幼い人は必ずいます(知恵袋を見ればわかります)
犯罪者でも自分の失敗を話すことで先生になることができます。

仮にもし、自分が人類で最も劣っていると思っても、すべての面において劣っていることはありえません。
ある部分では、そこそこ勝ってるところが必ずあります(負けん気はそこそこ強いとか)
まずはその部分の先生からはじめると良いと思います。

なかには人の悩みを解決したくても、できない人もいると思います(重病で動けないなど)
そのような人はエゴキャラではないので問題ありません。

しかし今このブログを読んでいる人で、そのような人は少ないはずです。
ほとんどの人が、やろうと思えばできると思います。



●“理解度”と“苦悩”は反比例する                 
“良いことをすれば良いことがかえってくる、悪いことをすれば悪いことがかえってくる”
というカルマの法則は、ほとんどの人が知っています。
わたしもウツのころから知っていました。
しかし当時のわたしは、グチったり、怒ったり、自己嫌悪したり、積極的に悪いことをしていました。
なぜでしょうか?
それはカルマの法則に対する理解度が低かったからです。

たとえば、ある麻薬について、
“なんか体に悪いらしい”
という理解しかなければ、目先の快楽に負けて、ついやってしまいます。

しかし理解度が上がって、
“強い発ガン性がある”
ということが分かれば、やる確率は下がります。

さらに理解度が上がって
“1年以内に100%の確率でガンになる”
ということがわかれば、やる確率はさらに下がります。

これと同じようにカルマの法則も、
“悪いことをすれば悪いことがかえってくるかも”
くらいの理解では弱いです。
このていどの理解だと、目先の快楽に負けて、つい悪いことをしてしまいます。
しかしブログでカルマの法則を読まれた方は、悪いことをする確率が下がったと思います。
それはカルマの法則の理解度が上がったからです。

悪いことをすると必ず苦悩におそわれます。
悪事と苦悩はワンセットです。
しかし神への理解度が高まると、自然に悪いことをする確率が下がります。
つまり“苦悩と理解度は反比例する”ということです。
だから神への理解度を高めることが大切なのです。

わたしは便宜上“悪いこと”と書くことがありますが、この世に“悪いこと”も“良いこと”もありません。
“悪いこと”を正確にいえば“より幸福感から遠のくこと”になります。
 


●教科書を書く
苦悩をへらすには理解度をあげることが必要です。
そして、理解度を上げるには、教科書を書くのがてっとりばやいです。

たとえば数学の教科書を一度読んだだけで理解することはできませんよね。
しかし自分で教科書を書けば、一度書いただけで、ほぼ理解できてしまいます。

教科書を読むのと書くのとでは、脳の使い方がまるでちがいます。
たとえば数学の教科書を書くには、数学を深く理解していなくてはなりません。
それには数学の資料をたくさん読むことが必要です。
そのとき、ただ生徒のように漫然と読むことはありません。
“教科書を書く”という明確な目的があるので、自然と、
「なんとしても理解しなければ!」
という気持ちになって読むことができます。
つまり自然と“理解モード”になって読むことができます。

しかし「教科書を書く(=人に教える)」という意識がないと、なかなか理解モードになれません。
どうしても漫然と読んでしまいます。
だから、なかなか理解度を上げられません。

数学の教科書を書けば、数学の理解度がアップし、数学の問題を解くのがうまくなります。
それと同じで“悩みをなくす方法”教科書を書けば、“悩みをなくす方法”の理解度がアップし、人生の問題を解くのがうまくなります。
このブログは“悩みをなくす方法”の教科書のつもりで書いています。
だから私は悩みをなくすのがうまくなったのだと思います。

とはいえ、ただ漫然と読みたいときもあると思います。
無理はしなくて大丈夫です。



●人に教えると理解度がアップする
人は、よくわからないボンヤリしたものに恐れを感じます。
オバケが怖いのは、オバケがぼんやりしていて、よくわからないからです。
しかしオバケの正体がフツーの人間だとハッキリ分かったとたん、恐れは少なくなります。

オバケ屋敷も、暗くてよくわからないから怖いのです。
明かりでハッキリ照らしてしまえば、恐怖は半減します。

つまり恐れ(不安)をなくすには“ボンヤリしたことをハッキリ”させればよいということです。
いいかえれば“よく分からないことを、もっと分かればよい”ということです。

“分かる”とは“分ける”ことです。
分けるとは、ゴチャゴチャしたものやボンヤリしたものを、ハッキリ区別することです。

たとえば恐怖のゴミ屋敷も、
「不要なもの」と「本当に必要なもの」
でハッキリ区別すれば、安心して住むことができます。

不気味なキノコの群生も、
「食用」と「毒」
でハッキリ区別すれば、安心して食べることができます。

“分かる”とは“理解する”ということです。
つまり自分がボンヤリとしか理解できていないことについて、もっと理解を深めれば、恐れが減るということです。
そのためには、いま理解できていることを、人に教えるのが近道です。

たとえば納得の法則を教えるまえ、私はこのことを今ほど理解していませんでした。
ただ“この世は自分のつくった世界だから、自分が納得いかないことは起こらないだろう…”
と、ぼんやり考えているだけでした。
“納得の法則”という名前すら分かっていませんでした。

しかし、これを人に教えるとき、
“この世は自分のつくった世界だから、自分が納得いかないことは起こらないだろう…”
などというボンヤリした説明では、なかなか納得してもらえません。
人を納得させるには、もっと“分かりやすい”説明にする必要があります。

そこでわたしは、このボンヤリした概念を、もっと分かりやすい概念にすべく、試行錯誤をくりかえしました。
そうするうちに、ボンヤリした概念に対する私自身の理解度が、だんだんアップしていきました。

理解度がアップしたということは、すなわち脳神経の回路が強化したということです。

“ボンヤリした概念”をつくっている脳神経の回路は、当然ぼんやりしています。
そのことについて、あまり考えていないため、回路が細く・少ない状態です。
そんな貧弱な回路では、早く的確に答えを出すことはできません。
カンタンなことにもグルグル悩んでしまいます。
初期のパソコンのような感じです。

では初期のパソコンを、優秀なパソコンにするにはどうしたらよいのでしょうか?
それは貧弱な回路を強化することです。
つまり、ボンヤリした回路を、ハッキリ鮮明に分かる回路に強化することです。
そのためには、ボンヤリした概念が、ハッキリ鮮明に分かる概念になるまで、よくよく考えることが必要です。

それには“他人を納得させる”つもりで考えるのが近道です。

他人を納得させるためには、理論に穴がないか、何度もチェックする必要があります。
誰にでも分かる説明にすべく、試行錯誤をかさねる必要があります。
そうすることで、脳神経の回路が太く・多くなり、強化されていきます。
そうなれば、当然、あたまの回転が早くなります。
そうすると、的確な答えを素早く出せるようになります。
だからグルグル悩むことがなくなります。

しかし“他人を納得させる”つもりで考えないと、なかなかこのような回路をつくることができません。



●ぼんやりした概念を“法則”にする
法則とは“引き寄せの法則”や“カルマの法則”のように“~の法則”とつくものだけではありません。
“納得できる概念”は、すべて法則です。
だから私にとってブログに書いたことは、すべて法則です。
“ギブギブ”も“今に生きる”も、法則です。

ブログに書いた法則は、はじめからハッキリとした法則だったわけではありません。
もとはボンヤリした概念でした。

たとえば0%の法則(Ctrl+F検索)は、
「過去を後悔するのはおかしい。だってそれ以外の行動をとっていた場合なんてありえないから」
というボンヤリした概念でした(これは子どものころ雑誌で読んだものです)
まだ“法則”とは呼べないレベルの概念です。
当然“0%の法則”という法則名も見えていませんでした。

しかし、これを人に教えようとしたとき、
「過去を後悔するのはおかしい。だってそれ以外の行動をとっていた場合なんてありえないから」
などというボンヤリした説明では、あまり納得してもらえません。
人を納得させるには、“法則”と呼べるくらいまで、説明(概念)をブラッシュアップする必要があります。

そのようにして書いたのが0%の法則(多世界解釈)です。

実をいうと、わたしは多世界解釈について書くつもりはありませんでした。
ただ、
「過去を後悔するのはおかしい。だってそれ以外の行動をとっていた場合なんてありえないから」
というボンヤリした概念を、納得のいく概念にしようとたら、結果的に多世界解釈の記事になってしまった…という感じです。
これに納得がいくかどうかは、みなさんのご判断におまかせします^_^;

なにが言いたいのかというと、つまり、
「法則をつくるには、ボンヤリした概念を“納得のできる概念”にすればよい」ということです。
ボンヤリした概念を、納得のできる概念にまでブラッシュアップすれば、それがすなわち“法則”になるということです。
なぜなら“納得できる概念=法則”だからです。

もちろん人間に、100%納得できる概念(法則)をつくることはできません。
100%納得できる概念(法則)とは、すなわち神のことだからです。
人間が分かる法則は、どんな法則でも少しは納得できないところがあります(不完全性定理/不確定性原理)

しかし、納得度は無限に高めることができます。
そして納得度を高めれば高めるほど、法則の効果も高めることができます。
たとえば「悪いことをすればバチが当たる」という法則を使うよりも、ブログの法則を使った方が悪いことをしにくくなると思います。
それはすなわちブログの法則のほうが効果が高いということです。
なぜでしょうか?
それはブログの法則のほうが、より納得できる(納得度が高い)からだと思います(エラそうにスミマセン(><)
 


●ごちゃまぜの概念を“法則”にする
もしこのブログが、ひたすらダラダラ、まとまりなく書かれていたらどうでしょうか?
今のように、タイトル(法則)ごとに分かれた構成でなかったらどうでしょうか?
文字どおり“分かりにくく”なると思います。
いざ日常でブログの内容を思い出そうとしても、思い出しづらくなると思います。

ブログの法則を実践するとき、
「ギブギブ」「今に生きる」「単語法」などのタイトル(法則名)や、
「78点」「ファジー」「言葉の力」など、タイトルの一部を思い出すこと多いと思います。
それは自分でも気づかないくらい一瞬のイメージだと思います。
言葉ともよべない、かすかな波動だと思います。
しかし、それをきっかけにして、
「見返りをもとめず、こちらから一方的に親切にしよう(=ギブギブ)」
「過去や未来はマボロシにすぎない。
 現実に存在するのは“今”だけだ。
 今できることをやるしかない(=今に生きる)」
など、そのくわしい内容を実践することができると思います。

しかしブログがタイトル(法則)ごとに分かれていなかったら、内容が分かりにくくなり、実践しづらくなると思います。

これは、ごちゃまぜの資料からモノを取り出すより、「古典」「地理」など種類ごとに分けておいたほうが取り出しやすいのと同じです。
ゴチャまぜの概念から、必要な概念(法則)を取り出すことはむずかしいです。
しかし「ギブギブ」「今に生きる」などと分けておけば、よりカンタンに取り出せるようになります。

だから私はこのブログが“法則辞典”になるように意識して書いています。
必要な法則を、より効率的に引き出せるようにと思いながら書いています。

または“呪文辞典”になるようにとも思っています。
短いタイトル(法則名)をイメージして、そのくわしい内容を引き出すのは、短い呪文をとなえて複雑な魔法の効果を引き出すのと同じです。
(たとえばドラクエでは「ホイミ」と唱えただけで“治療”という複雑な効果がえられます)

とはいえブログのすべてが法則になっているわけではありません。
タイトルのすべてが呪文になっているわけでもありません。
そのへんはファジーに考えてください^_^;


ブログの法則は、はじめからハッキリとした法則だったわけではありません。
もとはゴチャまぜの概念だったものが多いです。

今書いているこの記事は、はじめはゴチャまぜの概念をダラダラ書いたものでした。
しかし、
「みんなの悩みを減らすために、もっと“分かりやすく”説明するんだ!」
と思いながら文章を推敲していくうちに、
「先生キャラ」「今から先生」「教科書を書く」などの概念に、ハッキリ“分ける”ことができました。

だから私はブログで法施をすればするほど、あたまがハッキリ明確になっていきます。
今まで分からなかったことが、どんどん“分かる”ようになっていきます。
だからますます悩まなくなっていきます。

しかし、「みんなの悩みを減らすために」という気持ちが弱いと、
「“分かりやすく”説明するぞ!」という気持ちも弱くなります。
だから、ゴチャまぜの概念をうまく“分け”られなくなります。
そうすると、ゴチャまぜの概念をかかえたまま、自分自身が悩みつづけることになります。

やはり「みんなの悩みを減らす(=人間力をアップさせる)」という法施意識をもつことが大事ですね。



●独自法
いくら私のブログを読んでも、完全に悩みをなくすことはできません。
なぜなら人それぞれ個性や人生のストーリーが違うからです。

このブログの法則は、モモエの個性とストーリーが生み出した、モモエ独自の法則です。
多少はみなさんの参考になると思いますが、これで100%悩みをなくすのはムリだと思います。

私のブログで基本的なことを理解したら、あとはそれを応用して、自分独自の法則をつくることが必要です。
自分の個性と人生のストーリーにあった、自分独自の法則でないかぎり、100%活用することはできないからです。

ではどうすれば“独自法”をつくることができるのでしょうか?

それは、いま知っている法則を人に教えることです。

前述のように“人に教えると理解度がアップ”します。
理解度がアップすると、応用法をひらめきます。
この応用法が、すなわち独自法です。

理解度が低いうちに応用法をひらめくことはありません。
アインシュタインが相対性理論をひらめいたのは、物理の理解度が高かったからです。
物理の理解度の低い人が、相対性理論をひらめくことはありません。
たまに天啓でひらめくばあいもありますが、そればかりに頼ってはいられません。

ここでいう独自法とは、100%オリジナルな法則ではありません。
すでに知っている法則を応用したものをいいます。
たとえば私は引き寄せの法則について書きましたが、これは私のオリジナルな法則ではありません。
おなじみの法則です。
しかし私の引き寄せの法則は、他のどの本にも書かれていないと思います。
基本は同じでも、どこかちがうと思います。
それは私の個性とストーリーに合わせて、私が使いやすいように応用したものだからです。
この意味で、わたしの書いた引き寄せの法則は、わたしの独自法なのです。

引き寄せの法則の本はたくさんありますが、どれも内容がビミョーにちがいます。
それは人によって解釈がビミョーに違うからです。
つまり人の数だけ、独自の引き寄せの法則があるということです。
つまり、みなさんの中にもすでに独自の引寄せの法則(独自法)があるということです。

しかし自分の独自法が何なのか、よく分からない人も多いと思います。
それが分からないと、独自法をうまく使うことはできません。

独自法を使いこなすには、独自法の理解度を高めることが必要です。
そして、理解度を高めるには“人に教える”ことが近道です。
未熟でもいいので、いま理解している独自法を教えることが近道です。

では、いま理解している独自法とは何でしょうか?

たとえば、ブログの法則を実践するとき、100%そのまま実践することはないはずです。
自分が使いやすいように、省略したり言葉を変えたり、無意識にアレンジ(応用)していると思います。
そのアレンジが、すなわち“いま理解している独自法”です。
ささいなアレンジかもしれませんが、それはまぎれもなく、あなたの独自法です。

人に教えるときは、ぜひそのアレンジ(独自法)をメインに教えてあげてください。
ブログを思い出しながら教えるのではなく、自分が実際にやっていることを思い出しながら教えてあげてください。
他人の方法を教えるのと、自分の方法を教えるのとでは、説得力がまるでちがいます。
結果的に同じ内容になっても、言葉にやどるパワーがちがいます。
他人の受け売りだと、いくら正しい内容でも、あまり胸にひびきません。
正しいだけの教科書的な説明になりがちです。

みなさんがここまでブログを読んでこられたのは、あるていどブログに共感してくださったからだと思います。
それはこのブログが私のリアルな体験にもとづいていたからではないでしょうか?
私が実際にやっていることが具体的に書いてあったからだではないでしょうか?
私の血肉のかよった生々しい声が心にひびいたからではないでしょうか?
もし“人から聞いた良いはなし”を集めただけだったら、ここまで読まれなかったのではないでしょうか?

私はできるだけ、
“自分が実際にやっていること”
“自分が実際に使っている思想”
を書くようにしています。
しかし油断すると
“自分はやってないけど、良さげなこと”
“自分は使ってないけど、良さげな思想”
を書いてしまいます。
それは単なる“キレイごと”“模範的回答”“美辞麗句”といったものです。

そんなときはプラグマティズムを思い出して書きなおすようにしています。
いくら良いことでも、自分ができないことは、たぶん読者もできません。
いくら正しいことでも、自分が使っていない思想なら、たぶん読者も使いません。
もしかしたら使うかもしれませんが、それなら自分が実践していることを“優先”して説いたほうがよいです。
その方が、読者を幸せにできる確率が高いです。

ものごとには優先順位があります。
特に法施は優先順位を意識しないと、効果の低いことを先に説いて時間を浪費してしまいます(私のことですが…)


法則の具体的な使いかた以前に、そもそも“その法則はなにか”を教える必要があります。
たとえば引き寄せの法則なら“ありがとうを千回言う”などの具体的な方法より前に、
“そもそも引き寄せの法則とはなにか”を教えることが必要です。
そのときも、他人の解釈した引き寄せの法則ではなく、自分なりに解釈した引き寄せの法則(つまり独自法)を教えることが大事です。
そうすることで、
「あっ、なんか私の解釈はおかしい」
「この部分の理解があやふやだ」
と、理解の足りないところを自己発見することができます。
それをせず、他人の受け売りを教えつづけても、自分の理解不足に気づくことはできません。
だから、いつまでたっても理解度を上げることができません。
理解のたりない状態で、言葉たくみに説明しても、説得力がうすいです。

わたしはブログを書くとき、基本的に資料は見ません。
まずは自分の頭だけで書くようにします。
なぜなら、理解できていることしか書くつもりがないからです。

たとえば量子論なら“今のわたしが理解できている量子論”を書きます。
うまく書けなかったら、理解度が足りないということです。
そのときは、その場ですぐに勉強しなおします。
そうすると、ピンポイントで理解のたりない部分をおぎなうことができるので、効率よく理解度をアップさせられます。
これこそが法施の醍醐味です。

未熟ながらも独自法を教えていくと、より高度な独自法をひらめきます。
その高度な独自法を教えていくと、さらに高度な独自法をひらめきます。
これを繰り返すことで、どんどん神への理解度が高まっていきます。
それがすなわち、神に近づくということです。

ブログには、いろいろな法則が書いてありますが、はじめからすべてが見えていたわけではありません。
知恵袋→LESSON1→2→3……と書きながら、だんだん見えてきたことが多いです。
知恵袋を書かなければLESSON1は書けませんでしたし、LESSON1を書かなければLESSON2は書けませんでした。
書けたとしても、他人の受け売りの薄っぺらい内容になっていたと思います。

わたしはブログで独自法を教えるたびに、新たな独自法をひらめきます。
今もこうして“独自法をつくる”ということを教えながら、どんどん新たな独自法をひらめいています。
だから私の人生はどんどんラクで幸せになっています。

あまり独自法を教えない人は、あまり独自法をひらめきません。
だから、他人の法則(本やブログ)に依存しなくてはならなくなります。
しかし他人の法則で、自分の悩みを100%解決することはできません。
だからいつまでも悩み続けることになってしまいます。



●書いて教える
独自法を教えるとき、いきなり会話で教えるのはアブナイかもしれません。
なぜなら会話はテンポよく返事をしなければならないからです。
そうすると、独自法の正誤をじっくり検証することができません。
だから、まちがいの多い独自法を教えてしまう危険があります。

しかしブログなどのように“書いて教える”方法なら、事前にまちがいを修正することができます。
だから、より完成度の高い独自法を教えることができます。

“書くこと”は大切です。
なぜなら、書くことなしに理解度をアップするのは難しいからです。

たとえば、まったく書くことなしに国語や数学や化学の理解度をアップできるでしょうか?
それはムリだと思います。
カンタンなことならまだしも、あるレベル以上のことは書かないと理解が進まないと思います。

つまり、書いて教えない人は理解度が上がりにくく、独自法を見いだしにくいといえます。

とはいえ、どうしても書けない人は問題ありません。
書けなくてもよい人生が展開されます(納得の法則)

キリストやソクラテスのように、著作がなくても高度な独自法を残せる天才もいるので、自分がそうだと思ったらムリに書かなくてよいと思います。
しかし著作が残っていないだけで、ふだん勉強するときは色々書いていたのかもしれません。



●法施を日課にする
わたしは知恵袋をやるまえから、チョコチョコ法施※的なことをしていました。
それは気まぐれに、たまにやるていどでした。
そして当時のわたしは、自分の成長の遅さにイライラしていました。
いくらがんばっても人間力の上がらない自分に自己嫌悪していました。

しかし法施を“日課”にしてからは、そのようなことはありません。
なぜなら自分が納得できるくらいに、成長のスピードが早まったからです。
それは10年が1年に圧縮したような感じです。

たまに先生をやるのと、日課で先生をやるのとでは、
“自分は先生だ”
というキャラ意識の強さがちがいます。
たまにでは、それほど強いキャラ意識はもてません。
しかし毎日やれば、自然と強いキャラ意識をもつことができます。
学校の先生が先生らしくふるまえるのは、毎日先生をしているからだと思います。


魂年齢と法施の時間は、比例する傾向があります。
釈迦やキリストなど魂年齢の高そうな人たちは、人生の多くの時間を法施についやしています。
守護霊や指導霊なども、多くの時間わたしたちを教え導いてくれています。
神様はすべての先生ですから、もはや24時間法施状態だといえます。
つまり私たちも遅かれ早かれ、いつかはそのような状態になるということです。

しかし宇宙は永遠ですから、遅いも早いもありません。
だから、
「わたしにはまだ法施は早い。
 いつか人間力が上がったら法施をしよう」
などと思っていては、永遠に法施はできません。
“今”法施をはじめないと、永遠にはじまることはありません。

「わたしは魂年齢が低いから法施はまだムリ」
という理由もありえません。
なぜなら人には正確な魂年齢などわからないからです。
それに人間なら、どの段階でも法施をすることはできます。
犯罪者でも失敗を話すことで法施することはできます。

「余裕がなくて法施ができない」
ということも、まずないと思います。
1日1分でも法施はできます。
1日1行でも法施はできます。
無理なくできるところまでハードル調整することが大事です。

実際やりはじめると、予想よりも多くのことがやれるものです。
それは慣性の法則がはたらくからです。

それでも、どうしてもできないという人は、
「法施をライフワークにして、みんなを幸せにしよう」
と、毎日思ってみてください。
そうすれば、いずれそういう運命になります。
それはキャラクターの法則(納得の法則)がはたらくからです。
毎日そんなことを思っているキャラが、永遠に法施ができず、悩みつづけるなんて納得いきません。
つまりそのようなことはありえません。

しかし今ブログを読まれている方で、どうしてもできない人は少ないと思います。
ほとんどの人は、やろうと思えばできると思います。



●法施をすると成長が早い
前述のように、苦悩をへらすには理解度(応用力)を上げることが必要です。
理解度(応用力)を上げるには、本などを読むことも大切ですが、それだけでは足りません。
積極的に問題(悩み)を解くことも大切です。

いくら数学の教科書を読んでも、“なにが理解できていないのか”は分かりません。
実際に問題を解いてみて、はじめて、
「ここが理解でていなかったのか」
「この法則がうろ覚えだったのか」
ということが分かります。
実際に問題を解かないと“なにが理解できていないのか”は分からないものです。

それと同じで、いくら本やブログを読んでも“なにが理解できていないのか”は、分かりません。
実際に問題(悩み)を解いてみて、はじめて、
「ここが理解でていなかったのか」
「この法則がうろ覚えだったのか」
ということが分かるものです。

しかし限られた問題ばかり解いても、なかなか理解度(応用力)は上がりません。
たとえば一冊の問題集をカンペキに解けるようになっても、東大に合格することはできませんよね。
合格するためには、もっといろいろな種類の問題を解くことが必要です。

それと同じで自分の問題(悩み)ばかり解いていても、なかなか理解度(応用力)は上がりません。
男・女・主婦・サラリーマン……
など、他人のいろいろな問題を解くことで、理解度(応用力)をジャンプアップさせることができます。

自分の問題を解いているだけでも、理解度は少しずつアップします。
しかしそれは本当に少しずつです。
あまりに少しづつなので、成長の遅さにイライラするかもしれません。

老人になってもほどんど成長していない人、
前世が短気で今世でもまだ短気な人、
前々世で心配性で今世でもまだ心配性な人……
などの例を見ると、自然に、
「人って、なかなか成長しないな~(-_-;)イライラ」
と思ってしまうのではないでしょうか?

しかしここでポイントなのは、彼には、
“法施をライフワークにしている”
イメージがないということです。
彼らがいつも、
「法施をライフワークにしよう!」
と唱えていたとは思えません。
むしろ
「自分はダメ人間だ」
「自分は法施なんてできる人間じゃない」
「自分のことで手一杯だ」
といったネガティブな波動がイメージできます。

逆にいえば、
“法施をライフワークにしていたキャラが、老人になってもまったく成長していない”
というイメージは見えません。
毎日、
「法施をライフワークにして、みんなを幸せにしよう」
と思っているキャラが、いつまでたってもライフワークにできず、ずっと悩みつづけている……
というイメージも見えません。
ムリに見ようとすると、嫌な気分になるはずです。
それは魂が納得していないということです。
この世は自分の納得のいかないことはおこりません(納得の法則)

わたしはよく、
「モモエさんはどのくらいでウツが治りましたか?」
「どのくらいで苦しみから抜けだせましたか」
という質問を受けます。
このような質問をされる方は
「“はやく”人間力を上げて、“はやく”苦しみから抜け出したい」
という気持ちが強いのだと思います。
だから私がどのくらいの“はやさ”で苦しみから抜け出せたのか気になるのだと思います。
このタイプの人は、ぜひ法施を日課にしてみてください。
自分が納得できる速さで成長できると思います。

とはいえ法施を日課にしているのに、あまり成長しない先生もいます(どこかのセミナーや宗教の先生とか…)
そのような人を見ると「法施なんてムダだ」と思われるかもしれません。
しかしそれは早計です。

なぜ彼らがあまり成長しないのかというと、法施の効果が低いからです。

法施とは“人間力をアップする方法を教えること”です。
どんな法施にも人間力をアップさせる効果はあります。
しかしその効果が低いほど、先生の成長度も低くなるのはもちろんです。
生徒の人間力が大してアップしなければ、先生の人間力も大してアップしないのは当然です。
つまり法施がムダなのではなく、法施の効果が低いことが問題なのです。
…などと書いている私自身、人をとやかく言えません。
もっと効果的な法施ができるようにがんばります^_^;

このように書くと、
「わたしには効果の大きい法施をするなんて無理だ。
 だから法施をしても大して成長できないだろう」
と思われるかもしれません。
しかしみなさんはすでにこのブログを読まれていますから、このブログに書いてあるていどのことは教えられます。
だからモモエていどのスピードで徳をつむことは可能です。
だからモモエていどのスピードで成長することも可能です。
それでは遅い!という方も、想造力しだいで、もっと早く成長できると思います。



●まちがいは計算のうち
人はカンペキではありません。
だから間違いを教えてしまうこともあります。
そのとき、
「まちがいを教えてしまった!
 やっぱりわたしには法施なんてムリだ!」
などと思っていては、永遠に法施はできません。
というか、そもそもこの世に“まちがい”はありません。

まちがいとは“より真実から遠い”ということです。
正しいとは“より真実に近い”ということです。

いくら正しいことを教えても、それは今の時点で正しいだけです。
成長すれば、より正しいことをひらめきます。
そうすると過去に教えたことは“まちがい”になります。

だから、まちがうことを恐れていては永遠に法施はできません。
今もっとも正しいと思うことを教えていれば、それでよいと思います。

まちがったときは、
「そのぶん100倍くらい正しいことを教えよう!」
とエネルギーに変えてしまうのがコツです。

まちがいは、より正しいことをひらめくために必要なステップです。
まちがうこともひっくるめて、すべては神の計算のうちです。



●相手に合わせて自分を変える
法施は、相手の性格や魂年齢に合わせると効果的です。
プライドが高い人ならプライドを傷つけないように、
魂年齢が幼そうな人なら、特別にやさしくていねいに…、
といった感じで、相手に合わせるのがよいと思います。

私のばあい、相手がチャラければ、こちらもチャラい部分を出したり、
相手がマジメなら、こちらもマジメな部分を出したり、
相手がオットリしていれば、こちらもオットリした部分を出したり……
と、自分の性質(波調)を相手に合わせるように意識しています。
これは自分にウソをついているわけではなく、もともと私のなかにある性質を出しているだけです。

わたしたちはワンネスですから、他人のなかにある性質は、かならず自分のなかにもあります。
だれにでもチャラい部分、マジメな部分、オットリした部分した部分はあるはずです。

自分の性質(波調)を相手に合わせると、
「コイツは仲間だ」
「この人は自分のことをわかってくれている」
と相手の共感をよんで(波調が共鳴して)、意見に同調してもらいやすくなります。

逆にそれをしないと、いくら正しいことを言っても、
「こいつはオレと人種がちがう」
「わたしの気持ちなんか分かるわけない」
と、心を閉ざされてしまいます。
それは波調が合っていないからです。

観音様は、聖観音・千手観音・十一面観音など、さまざまな姿に変化します。
これは相手の性質(波調)に合わせて法施をするため、自分を変えているのです。
わたしたちも観音様をみならって、臨機応変に変化することが大事だと思います。

もちろん100%別人になる必要はありません。
自然に変われる範囲で変わることが大切です。

「そんなにコロコロ自分を変えたら、変に思われないだろうか」
と心配になるかもしれませんが、その必要はありません。
自分では、かなり変わっているように思っても、他人から見れば大した変化ではないからです。
ただ、
「この人は誰とでも話ができる、コミュ力の高い人だな」
と思われるくらいだと思います。
これは実際、実験※してみればわかると思います。

というか、まわりに違和感を与えるほどの変化は“やりすぎ”です。
バランスゲームに失敗しています。
そこまで変わる必要はありません。

名司会者といわれる人は、相手に合わせて上手に自分を変えています。
チャラい芸人、おとなしい女優、マジメな知識人…などなど、相手の波調に合わせて、自分の波調をビミョーに変えています。
彼らはバランス感覚が良いので、まわりに違和感を感じさせません。
むしろ見ていて心地よさを感じます。

しかしバランス感覚の悪い人は、変に変わりすぎて違和感を感じさせます。
逆に変えなさすぎて“頑固おやじ”“意固地な子ども”“コミュ力のない人間”になってしまいます。


人に合わせて自分を変えない人は、逆に、
“人によって態度を変えるイヤなやつ”
と思われがちです。
それは、自分と波調の合う人には調子よく対応して、合わない人にはそうしないからです。
相手からしたら、
「アイツとは楽しそうに話すのに、自分には無愛想にする。
 こいつは人によって態度を変えるイヤなやつだ」
などということになります。

逆に、相手に合わせて自分を変えられる人は、、
“誰に対しても態度を変えない人”
“みんなに平等に対応する人”
に思われやすいです。
それは、誰に対しても波調を合わせて、うまく対応することができるからです。

実際、わたしはこの方法で、
「モモエは誰にたいしても態度が変わらない。感じが良い」
と言われるようになりました。

しかし、
「人に合わせて自分を変えるなんて八方美人だ!
 自分にウソはつきたくない!
 自分に正直に、ありのままの素の自分でいるんだ!」
と思っていたころは、自分でもわかるくらい
“人によって態度を変えるイヤなやつ”
になっていました。
波調の合う人には調子よく対応するくせに、合わない人には無愛想にしていたからです。
当然、そのころは人間関係がうまくいかず、敵も多かったです(だからウツでした)
しかし今の私の人生には、敵が一人もいません。
だから天国のような毎日です。

“相手に合わせて自分を変えない人は、相手によって態度が変わる”
“相手に合わせて自分を変える人は、誰に対しても態度が変わらない”
神はこのようなトリックが大好きです。



●演技力をつける
この世は演劇ごっこです。
私たちの本性は神で、それが山田太郎とか鈴木花子とかの役をやっています。

うまく自分を変えられない人は、この事実に対する自覚が低いといえます。
つまり、
「今、自分は演技中だ」
という自覚が低いため、自分をうまく演出することができないのです。
むしろ、
「演技することは悪いことだ。
 それは人をダマすことであり、自分をいつわることだ」
とカンちがいしています。

もちろん、悪意で人をだます演技はNGです(サギとか)
しかしそうでなければ積極的に“演じる”べきだと思います。

なぜならそもそも、この世は演劇ごっこだからです。

だから人間力が高いほど、言動が自然で、洗練する傾向があります(名優のように)
人間力の低いほど、言動が不自然で、挙動不審で、やぼったくなる傾向があります(だいこん役者のように)
みなさんの知っている人を思い浮かべれば、思い当たるフシがあると思います。

とはいえ、あくまで傾向ですので、一概にはいえません。
タレントや講師など、日ごろから人前に立つことの多い人は、人間力が低くても、言動が洗練されることがあります。
俳優やサギ師など、普段から演じることの多い人も同様です。

ともあれ、挙動不審にならず、自然に変化するためには、
「今、人生ドラマで演技中なんだ」
という意識をもつことが大切です。
この意識の低い人は、まるでドラマの撮影にまぎれこんだ一般人のように、不自然でヤボったい言動になってしまいます。

しかし「この世は演劇ごっこである」という自覚をもっていても、不自然な言動になることがあります。
それは“演技力”が不足しているからです。
つまりは“ダイコン役者”だからです。
ダイコン役者は、うまく自分を変えることができません。
名優のように、洗練した言動をとることができません。

しかし心配ご無用です。
どんなダイコン役者でも、日々練習していけば、だんだん名優になっていきます。
俳優が演技の稽古をするように、私たちも意識的に演技の稽古をすることが必要なのです。


ここで言う“演技”とは“自分をいつわる”という意味ではありません。
“自分を洗練させる”という意味です。
つまり、演技の練習とは、より洗練された身なりや言動を練習するということです。
ここをカンちがいすると、
「演技することは自分をいつわることだ。だから悪いことだ」
というトラップにハマってしまいます。
そうすると、自分をうまく変えられず、観音様のような法施もできません。



●わたしの目標
わたしは以前まで知恵袋を日課にしていました。
そこで法施をするうちに、いろいろな独自法を見いだすことができました。
それを知恵袋に書ききれなくなったため、ブログにまとめることにしました。

ブログを読むとわかると思いますが、根本的に悩みをなくすには、たくさんの知恵が必要です。
しかしそれらを、ひとりひとりに教えていくのは時間がかかりすぎます。

そこで私は“これさえ読めば悩みをなくせるブログ”をつくろうと思いました。
完全に悩みをなくすことはムリでも、なるべくそれに近いものをつくりたいと思いました。
そうすれば、より短時間で多くの人を幸せにすることができます。
私が死んだあとも、無限の幸福を生み出しつづけることができます。

私は生きているうちに、できるだけ多くの知恵を書き残し、ブログを完成に近づけたいと思っています。



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永遠のサザエさん役

2013.12.31.23:48

あるていど人間力がついてくると、自然と“デキる人間”になってしまいます。
それは仕事だったり、人間関係だったり、ありとあらゆる場面で“あの人すごいね”と言われるような状態になります。
しかし、それを“自分のキャラ”にしてはいけません。
人から尊敬されたり、“あの人はスゴイ”と思われるようになると、自分でも無意識のうちに“デキる人”“すごい人”を演じてしまいがちです。
しかしユダヤの法則により、人は永遠に完璧にはなれませんので、どんなに自分に人間力がついたと思っても、やっぱり時には失敗してしまうこともあります。
失敗ならまだしも“大失態”をしてしまうことも往々にしてあります。
そんなとき、日頃から“デキるキャラ”を演じていると、受ける精神的ダメージがとても大きくなってしまいます。
しかし日頃から“自分は皆と同じ。普通の凡人だ”ということをちゃんと自覚していると、人前で恥をかいたところで大して恥ずかしい思いをせずにすみます。

人は完全に平等です。
自分だけが特別に賢いということはありえません。
ニュースでは、犯罪者が毎日のように大失態を繰り広げていますが、ぶっちゃけて言えば私たちもそのような犯罪者と大差ないのです。
神の目から見たらどんぐりの背比べだと思います。

自分がデキるキャラだと思うと、テストの点が悪かった時にかなりのショックを受けてしまいますが、“自分はどこまでいってもサザエさんなんだ”とわかっていれば、大してショックを受けずに済みます。
自分のキャラを勘違いしないように注意しましょう(私がです。スミマセン^^;)


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トラップゲーム

2014.02.21.20:54

ほとんどの苦悩は、
「この世は現実だ」
という思いからきています。

たとえば遊園地のアトラクションで海賊におそわれても、
「怖いいい!どうしよう(~o~;)!」
と本気で苦悩することはありません。
むしろそれを、
「おもしろい♪」
と思えます。
それは私たちが、
「これは現実じゃない。
 アトラクションだ」
と思っているからです。

また映画でダメ人間の役でも、
「自分はダメ人間だ…」
と本気で苦悩することはありません。
むしろそのような役を「おもしろい」と思えます。
それは私たちが、
「これは現実じゃない。
 空想のはなしを演じているだけだ」
と思っているからです。

ドラクエのなかで病気になっても、
「ヤバイ…病気だ…どうしよう…(T_T)」
と本気で苦悩することはありません。
むしろ、
「この病気の攻略法はなんだろう(?∀?)」
と、そのイベントをおもしろがることができます。
それは私たちが、
「ドラクエは現実じゃない。
 ファンタジー(幻想)だ」
と思っているからです。

人はファンタジー(幻想・空想)にたいして、
“おもしろい”
と感じるようになっています。
私たちが映画・小説・ドラマなどを好むのはそのためです。

しかしそれを、
「現実だ」
と思ったとたん、“おもしろい”が“苦しい”に変わります。
幻想ならおもしろい映画も、それが現実になると、
「ギャー!ゴジラだー ((( ;゚Д゚))ガクルブル 」
「ギャー!怖いいいいい!((( ;゚Д゚))ガクルブル 」
と本気で苦悩することになります。

ひごろ私たちが感じている苦悩もこれと同じです。
人生という映画を、
「現実だ」
と思うから苦しいのです。

前述のとおり宇宙は神の意識がつくりだしたマボロシです。
実体はありません。
このことを思いだせば、
「この世は現実だ」
という錯覚に苦しまずにすみます。

しかしともすれば私たちはこの真理を忘れがちです。
だからわたしはいろいろな法則をつかって忘れないようにつとめています。
“法則をつかう”というよりも、
“ゲーム(=法則)であそぶ”
という感覚です。

わたしがよくあそんでいるゲームに、
“トラップゲーム”
があります。
このゲームはトラップ(ワナ・ナゾ)を解きながら真実(ゴール・クリア)をめざすゲームです。
一般的なトラップゲームにナゾときゲーム・ダンジョンゲーム・探偵ゲームなどがあります。
インディージョーンズや名探偵コナンはトラップを解きながら真実をめざしますよね。

宇宙は巨大なトラップゲームです。
わたしたちの意識には真実をはばむトラップが無数にしかけられています。
それらを解くことで、だんだん真実(神)に近づけるようになっています。

たとえば、
“この世は幻想(バーチャルゲーム)だ”
という真実をはばむトラップに、
「この世は幻想なんかじゃない。現実逃避するな!」
「人生はバーチャルゲームなんかじゃない。もっと神聖なものだ」
「“この世はバーチャルゲームだ!”とか本気で思っている自分が恥ずかしい。
 あたまがオカシイのかもしれない」
…などの意識(固定観念)があります。

また、
「この世がバーチャルゲームだとしたら、人間はたんなるプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)になってしまう。
 人間はそんな軽々しいものではない」
「人間がプログラムだ、などという考えは不謹慎だ。
 そのような考えは神への冒涜だ」
「人間がプログラムだ、などという考えには愛がない。
 人間はちゃんと実体がある現実の存在なんだ!」
…などの意識(固定観念)もあります。

冷静にブログなどを読んでいるときは、このような意識にひっかかることはないと思います。
しかしいざ日常生活になると、とたんにひっかかってしまいます。

たとえばいざ親しい人を目の前にして、
「お母さんはプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ」
などと思おうとすると、
「そんな考えは不謹慎だ!
 そんな考えには愛がない!」
といった罪悪感(トラップ意識)や、
「お母さんはプログラムなんかじゃないっ
 ちゃんと実体がある現実の存在なんだ!」
といった固定観念(トラップ意識)がおそってくると思います。
その結果、
“この世は幻想(バーチャルゲーム)である”
という真実が見えなくなってしまい、母親という立体映像にたいして本気で怒ったり心配したりして苦悩する…
というのがいつものパターンだと思います。

もし、
「この世はバーチャルゲームだ=人間は実体のない架空の存在だ」
と100%確信できたら人間関係の苦悩は100%なくなります。
架空の人格(ロボットやゲームキャラなど)に悪口を言われたからといって、本気で怒ったり苦しんだりすることはありません。

トラップ意識とは、いわば“固定観念”です。
自分のなかにある固定観念に気づいたら、
「トラップ意識かも」
と疑ってみてください。
トラップ意識を解けば、とたんに人生が楽になります。



●トラップ意識の解きかた
トラップ意識を解くのはカンタンです。
「この考えはトラップだ」
と自覚すればいいだけです。

たとえば人に対して本気で腹が立っているときは、
「コイツはプログラム(立体映像)なんかじゃない。
 実体をもった現実の存在だ!」
というトラップ意識にひっかかっています。
そのときは、
「自分はトラップ意識にひっかかっている。
 この世はバーチャルゲームで、人間はプログラム(立体映像)だ」
と“自覚”すればいいだけです。

自覚とは“自分に目覚める”と書きます。
つまり自分本来の意識(神の意識)に目覚めるということです。
それはつまり真実に目覚めるということです。

とはいえ、いくら自覚してもトラップ意識を完全に解くことはできません。
トラップ意識は無限によみがえってきます。
いくら、
「この世は幻想だ!」
と自覚しても、
「いや、この世は現実だ!」
という思いがわいてきて、本気で苦悩してしまうと思います。
このせめぎあいは永遠につづきます。

しかしトラップ意識は解けば解くほど弱くなります。
つまりトラップゲームであそべばあそぶほど苦悩は小さくなります。
ゲームがヘタなうちは苦痛ですが、上手くなるほど楽しくなるのと同じです。

なぜトラップ意識を完全に消せないのかというと、この世がそもそもゲームだからです。
人生がそもそもゲームだからです。
時間・バランス・リズム……などなど、この世のありとあらゆる概念は神のゲーム(あそび)です。

“ゲーム”と“トラップ”は一心同体です。
トラップ(障害)のないゲームはゲームとしてなりたちません。
どんなゲームにもトラップ(障害)の要素がふくまれています。

ドラクエなら、モンスターがトラップ(障害)です。
だれかと競うゲームなら、相手がトラップ(障害)です。
一人でやるゲームなら、ルールがトラップ(障害)です。
なんのルール(障害)もなく好き勝手にやっていいということになれば、それはゲームではありません。
カオスです。
モンスター・対戦相手・ルールなどの障害(トラップ)があるからこそゲームはおもしろいのです。
トラップこそ“おもしろさ”の正体なのです。

神が人生ゲームをしているのは、おもしろみ(幸福感)を味わうためです。
だからトラップ意識(おもしろみ)が完全に消えることはありません。

しかし、
「今、自分はゲームをしている」
という自覚が弱いとトラップが“おもしろみ”だと気づけません。
たんなる苦しみだと解釈してしまいます。

だからまずは、
「自分は人生というゲームであそんでいるんだ」
という自覚を強くすることが大事です。


トラップ意識がなかなか弱まらないときは、トラップ意識のどこがまちがっているのか、あまり理解できていないのだと思います。
今回の例なら、
「この世は幻想なんかじゃない。現実逃避するな」
「人生はバーチャルゲームなんかじゃない。そんな考えは不謹慎だ」
といったトラップ意識のどこがまちがっているのか、よく分かっていないということです。
そのときは3徳をつんで神への理解度を上げればOKです。

ご参考までに、いくつかトラップ意識のまちがいを見ていこうと思います。

たとえば、
「この世は幻想なんかじゃない。現実逃避するな」
というトラップ意識ですが、これは真実がアベコベになっていますよね。
「この世は現実である」という考えが幻想で、
「この世は幻想である」という考えが真実だったはずです。
もちろん真実はだれにもわかりませんが、
信じたらより幸せなることを真実にする
ということを以前かかせていただきました。
「この世は現実である」
と解釈するより、
「この世は幻想である」
と解釈したほうが幸せになれるのは前述のとおりです。

また、
「人生はバーチャルゲームなんかじゃない。そんな考えは不謹慎だ」
というトラップ意識ですが、これも真実がアベコベになっています。
「人生はバーチャルゲームじゃない=人生は現実だ」
と思うから人生に本気で苦悩してしまうのです。
苦悩することはネガティブな波動をまきちらす不謹慎な行為です。
つまり、
「人生はバーチャルゲームなんかじゃない。そんな考えは不謹慎だ」
という意識こそ逆に不謹慎なのです。



●逆転劇
わたしたち(神)は、
「今まで真実だと思っていたことが、じつは誤りだった!」
「今まで正義だと思っていたものが、じつは悪だった!」
といった“逆転劇”が大好きです。

たいていのドラマ(映画・小説など)には、多かれ少なかれ逆転劇が入っています。
歴史をみても、
「地球のまわりを太陽がまわっていると思っていたら、地球が太陽のまわりをまわっていた!」
「天災は神の怒りだと思っていたら、たんなる物理現象だった!」
「この世のすべては物理現象だ! 神は死んだ! …と思っていたら、じつは自分が神だった!」
…など逆転劇に満ちています。

「この世は幻想なんかじゃない。現実逃避するな」
という考えが、じつは幻想的な考えで、
「この世は幻想にすぎない」
という考えが、じつは現実的な考えだった、
…というのも逆転劇です。

「人生はバーチャルゲームなんかじゃない。そんな考えは不謹慎だ」」
という考えが、じつは不謹慎な考えで、
「人生はたんなるバーチャルゲームだ♪」
という考えが、じつは神聖な考えだった、
…というのも逆転劇です。



●人間はプログラムである
「人間がプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ、などという考えは愛がない」
という考えは正論のように思えますが、これもトラップ意識です。
なぜならこの考えでは、真に人を愛することはできないからです。

この考えの裏には、
「人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)のような空虚な存在ではない。
 実体のある現実の存在だ」
という思いがあります。

しかし前述のように苦悩は、
「この世は現実だ=人間は実体のある現実の存在だ」
という思いから生まれます。

架空の人格(ロボットやゲームキャラなど)を本気で憎んだり、うらやんだりすることはありません。
多少しても、苦悩でウツ病なるほどではないと思います。
なぜなら、
「あれはホンモノの人間じゃない。
 架空のキャラクターだ。
 本気で憎むなんてバカらしい」
という思いがわいてくるからです。

つまり、
「人間がプログラムだ、などという考えには愛がない」
という考えこそ人を苦悩させる愛のない考えなのです。

逆に、
「人間はプログラムだ」
と100%確信しないかぎり100%の愛は発揮できないともいえます。

しかしはじめのうちは、
「人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ!」
と確信するのはムズカシイと思います。
その理由に、
「“人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ”
 などと思ったら、本気で人を愛せなくなるのではないか?」
 といった恐れ(トラップ意識)があると思います。

このトラップ意識を要約すると、
・物質・実体・現実的なもの → 愛する価値がある
・実体のないもの・バーチャルなもの → 愛する価値がない
ということになります。

しかしこれはおかしな理論です。
なぜなら宇宙にはそもそも実体がないからです。
すべては神の意識がつくったマボロシです。
人間は神の意識がつくったプログラム(作品)です。
わたしたちは超神聖なバーチャルロボットです。

このことを思いだせば、
“実体のないもの・バーチャルなもの → 愛する価値がない”
などというトラップ意識にひっかかることは少なくなります。

その他、
「人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ」
と確信しきれない理由に、
「“人間はプログラムだ”
 などと思うと、カンタンに人を傷つけたり自殺や殺人を犯してしまうのではないか?」
といった心配(トラップ意識)もあると思います。

しかしブログ読者のかたにそのような心配は不要です。
ブログに書いてあるような法則(カルマ・波動・納得など)をあるていど理解していれば、
「人はプログラムだから傷つけても平気♪」
「わたしは立体映像だから自殺しても平気♪」
などとはとても思えないはずです。

しかしそれらをあまり理解していない人が、
「人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ」
などと教えられたら、それこそカンタンに命を粗末にするおそれがあります。
なのでそのような人には、
「この世はバーチャルゲームだ(人間はプログラムだ)」
といったこと安易に教えないようにしてください。

法則をあるていど理解しているのに、怖くてトラップ意識が解けないときは、実験精神をもつのがオススメです。
たとえば実験的に、
「人間はプログラム(立体映像・バーチャルキャラ)だ」
と思って生きてみるのです。

みなさんこれまで、
「人間は実体のある現実の存在だ。
 プログラムなんかじゃないっ」
という考えをさんざん実験してきたと思います。
しかし結果は100%失敗(苦悩)だったはずです。

それなら今回の人生は、
「人間は実体のないプログラムだ」
という考えを実験してみてはどうでしょうか?

どうせこれまでの考えでは100%うまくいかないのです。
ダメで元々。
うまくいったらもうけものです。
ぜひ新たな実験にチャレンジしてみてください。
そうしないと失敗率100%の実験をえんえんくりかえすハメになってしまいます。

「どうせ人は何度も生まれ変わるんだ。
 一度の人生くらい棒にふってもかまわない!」
くらいの気概をもつと新たな実験にいどみやすくなります。

※このブログでは
“悪・まちがい・あやまり…”
といった表現をつかうことがありますが、あくまで便宜上の表現です。
厳密にはそのようなものはありません。


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100%ゲーム感覚

2014.03.15.17:43

「人生はゲームみたいに軽々しいものじゃない。
 もっと重大なものだ」
「人生をゲーム(あそび)感覚で生きるのは不謹慎だ。
 そんな考えは犯罪や自殺・殺人を助長する」
といった考えは正しいように思えますが、これもトラップ意識です。
なぜなら、この世はそもそも神のゲーム(あそび)だからです。
100%ゲーム(あそび)感覚になれば苦悩することはありません(あたりまえですが)
100%ゲーム(あそび)感覚とは、神の感覚そのものです。

しかし、
「人生はゲームのように軽々しいものじゃない。
 もっと重大なものだ」
と思っている人は、まちがいなく苦悩します。
人生を大げさにとらえて深刻になるからです。

また、
「人生をゲーム感覚で生きるのは不謹慎だ。
 そんな考えは犯罪や自殺・殺人を助長する」
といった考えはオトナな考えに思えますが、じつは幼い考えです。

幼い魂は、
「人生はゲームだ」
などと言われれば、それこそゲーム感覚で罪をおかし命を粗末にするおそれがあります。
また彼らは、
「人生はゲームなんだ! じゃあゲーム感覚で好きにあそんで生きてやる!」
と思っても、なかなか思うようにあそべません。
なぜなら彼らがあそぶと悪いカルマをつくりやすいからです(怠慢、自堕落、人に迷惑をかける…etc)
それらが返ってくるので彼らは苦悩しがちです。
外面はあそんでいるようでも内面はあそべてないことが多いです。

だから幼い魂には、
「人生はゲームのように軽々しいものじゃない。
 もっと重大なものだ」
「人生をゲーム感覚で生きるのは不謹慎だ。
 そんな考えは犯罪や自殺・殺人を助長する」
といった理論も必要だといえます。
小、中、高校生…と、成長度によって必要な学びがちがうのと同じです。

だから魂が幼そうな人に“人生はゲームだ論”を説くのはおひかえください。

しかしブログに書いてあるようなことを理解している人が、いつまでも幼い理論にとどまる必要はありません。
“人生はゲーム(あそび)である”
といった次の理論に進むことをオススメします。
あるていど神の法則を理解すれば、そのような理論が自殺や犯罪につながることはありません。

幼児がナイフを使うのは危険ですが、オトナが、
「ナイフは危険だから使わない」
では情けないです。

同じように、幼い魂に、
「人生は100%ゲーム(あそび)だ」
といった思想は危険ですが、あるていど成長した魂が、
「そんな考えは危険だ」
というのは、たんなる臆病です。
もしくは意固地か、意識改革をめんどくさがる怠慢です。

「ワ~イ♪ 人生はあそび(ゲーム)なんだ♪ じゃあ気楽に生きていこう(^^)v」
…とコドモのような意識でいる人は、人生に深刻になりません。
なにが起こっても、
「たかがアソビ(ゲーム)だ(・∀・)♪」
と余裕のよっちゃんでいられるからです。

余裕とは車のハンドルでいうところの“あそび”です。
“余裕=あそび”です。
心に余裕(あそび)のある人は、小さなことでイライラしません。
つねに悠然としたオトナな態度でいられます。

かたや、
「人生はあそび(ゲーム)じゃない。もっと重大なものだ」
といった未熟なオトナ理論の人は、人生に深刻になりがちです。
いつも心がふさがっていて余裕がありません。
だから小さなことでイライラするコドモのようになってしまいます。

未熟なオトナ理論は、あくまで未熟な魂むけの方便です。
あるていど成熟した魂にとってはトラップ意識になります。

つまり、
「人生はゲームじゃない。もっと重大なものだ(-"-)」
といったオトナな考えが、じつはコドモな考えで、
「ワ~イ♪ 人生はたんなるゲームなんだ(^^)♪
 じゃあとことんゲーム感覚で生きちゃおう♪」
といったコドモな考えが、じつはオトナな考えだった…
という逆転劇ですね。


●あそべばあそぶほどマジメになる
わたしは以前まで、
「もっとマジメに生きたい」
と思っていましたが、なかなかそうできませんでした。

たとえばマジメに働きたいのに、ふらふら離席したりネットサーフィンしたりして、なかなかマジメ働くことができませんでした。
ときにそのような休息も必要ですが、わたしのばあい、
「もっとマジメに働けるはずだ」
と自分に納得できていませんでした。
しかし今はあるていど納得できるマジメさで働けるようになっています。

今のわたしを外から見れば“かなりマジメ”に見えると思います。
しかしそれはトラップです( ̄ー ̄)ニヤリ
なぜなら私はマジメどころか、ほとんどゲーム(あそび)感覚で働いているからです。
外から見たらマジメでも、中はある意味、チョー不まじめです。

わたしは働きながら頭のなかで、
「これはマラソンゲームだ♪
 ランナーズ・ハイがくるまで止まらず走りつづけよう♪」
「これは集中ゲームだ♪
 集中モードに入って時間がたつのを忘れよう♪」
「これは“仕事を楽しむゲーム”だ♪」
 あの手この手で仕事を楽しむぞ♪」
など、いろんなゲームであそびまくっています。

また、
「キャッホー! ノッてきた♪」
「メチャおもしろい♪」
「ランナーズハイきたキタ━(゚∀゚)━!」
などフザけたコトバを連発しまくっています(もちろん頭のなかで)

わたしが不まじめだったころは、、
「仕事はアソビじゃない!」
「もっとマジメにやれ!」
などの“いわゆるマジメな意識”で自分を調教していました。
しかしそのような意識では、なかなかマジメになれませんでした。
なぜなら“いわゆるマジメな意識”からはキビしくツラい波動が出ているからです。
キビしくツラい波動をあびると、
「つらい、しんどい、もうイヤだ…」
といったキビしくツラい波動(気分)になってしまいます。
これではマジメどころかネガティブな波動をまきちらす不良です。

ネガティブな気分(波動)のまま、最高のパフォーマンスで働きつづけるのはムズカシイです。
一時ならともかく、毎日、長時間にわたって高いパフォーマンスを持続するのはムリだと思います。
(たとえできたとして、それはツライものだと思います)
わたしなど15分ももちません。
「つらい、しんどい、もうイヤだ…」
と、すぐに低パフォーマンス(不まじめ)になってしまいます。

そんなわたしでもゲームとなればハナシは別です。
ゲームなら毎日長時間まじめにプレイすることができます。
集中して高いパフォーマンスでプレイし続けることができます。

仕事だと30分も集中していられないのに、ゲームなら何時間も集中できる人は多いと思います。
チョー自堕落な人が、パチンコ、競馬、釣り、モバゲーなどには、長時間マジメに取りくんでいるのをよく見かけます。
人間的にはイマイチでも、芸術やスポーツなら真剣にとりくめる人も多いと思います。

というかぶっちゃけ、
“どんな不マジメな人でもアソビやゲームならマジメになれる”
といえます。
もっといえば、
“100%ゲーム感覚にならないかぎり100%マジメにはなれない”
とすらいえます。

人は心があそぶと体感時間が速くなります。
好きなテレビを見ているとき、好きな本を読んでいるときなどは、だれしも時のながれが速くなると思います。
逆に心があそんでないと体感時間がニブくなります。
イヤイヤ仕事しているとき、拷問を受けているときなどは、10分が1時間にも感じられるはずです。
これはアインシュタインの相対性理論のたとえでも有名です。

わたしは絵を描くのが好きなので、いったん描きはじめるとスグに数時間たってしまいます。
なので私は仕事をするときこの感覚を思いだすようにしています。
まったく同じ感覚はムリでも、
「あのお絵かきアソビの感覚になろう♪」
と思うだけで、あるていど体感時間を速められます。
だから、
「えっ、もう○時間たったの?」
という感じでアッというまに退社時間になってしまいます。

そんなわたしを表面的にみれば、
“長時間マジメに集中して働ける人”だと思います。
しかしその内実は、
“短時間ゲームに夢中であそんでいる人”なのです(逆転劇)

これは仕事だけでなく、あらゆることにあてはまります。
わたしは健康・金銭・人間関係など、いろんな面でマジメ(当社比)に生きていますが、それはわたしの意志が強いからではありません。
生まれつきマジメだからでもありません。
「すべてのこと100%ゲーム感覚でとりくもう♪」
と思っているからです。
それは、
「なにごともゲーム感覚でとりくんだほうがいいよね」
という中途半端なものではありません。
「すべてのことに100%ゲーム感覚でとりくむべきだ!」
と思っています。
気やすめに、
「なにごともアソビだと思ったほうがいいよね」
というのではありません。
宇宙はそもそも神のアソビです。
「アソビと思ったほうが良い」
のではなく、そもそもがアソビなのです。
だから、
「100%アソビと思うべき!」
と思っています。

なかなかゲーム(あそび)感覚になれない人は、
「人間関係をゲーム感覚でとらえるなんて不謹慎だ!」
「金銭をあそび感覚であつかうなんて不謹慎だ!」
などのトラップ意識(罪悪感)が強いのかもしれません。
しかし不謹慎なのは、
「人間関係なんてしょせんゲームでしょ(-o-)
 だから真剣になるのはバカらしい(-o-)
 テキトーにゲーム感覚であそべばいい(-o-)」
「カネなんてしょせんマボロシだ(-o-)
 マネーゲームの道具にすぎない(-o-)
 だからゲーム感覚でテキトーにつかってかまわない(-o-)」
…とネガティブな波動(ネガティブキャラ)になっているときだけです。
逆に、
「人間関係なんてしょせんゲームでしょ(^^♪
 だから深刻になるなんてバカらしい(^^♪
 テキトーにゲーム感覚であそべばいい(^^♪」
「お金はしょせんマボロシだ(^^♪
 マネーゲームの道具にすぎない(^^♪
 だからゲーム感覚でたのしくつかってかまわない(^^♪」
…とポジティブな波動(ポジティブキャラ)になっているときは大丈夫です。
同じことを思っても、ネガティブキャラ(不幸になりそうなキャラ)か、ポジティブキャラ(幸せになりそうなキャラ)かで、運命はまったく異なります。
不幸になりそうなキャラは、どんなに正しいことをしても不幸になります。
幸せになりそうなキャラは、なにをやっても幸せになります。
“正しいこと”を“不幸になりそうなキャラ”でやらないように注意しましょう。
納得の法則・キャラクターの法則

また、なかなかゲーム(あそび)感覚になれない理由として、
「100%ゲーム感覚になったらダメ人間になってしまうのではないか…」
といったトラップ意識もあると思います。
しかしダメ人間になるおそれのあるのは、神への理解が低い人だけです。
ブログに書いてあるような法則を理解している人に、そのようなおそれはありません。

もちろんゲーム(あそび)感覚になればオールOKというわけではありません。
総合的な人間力のアップは必要です。

またここでは便宜上“完全・100%”といった表現をつかっていますが、そのような状態はありえません(ユダヤの法則/ファジーの法則)
だから、
「どうしても100%ゲーム感覚になれない~(T_T)」
というのはナンセンスです。
「100%ゲーム感覚をめざそう!」
と思うこと大切です。



●すべてゲーム
人はカンペキではないので、100%ゲーム(あそび)感覚になるのは不可能です。
100%ゲーム感覚になるということは、神そのものになるということです。
人間であるかぎり、どうしてもゲーム感覚になれない部分は残ります。
そしてその部分はどうしても苦悩することになります。
…といっても大丈夫です。

みなさんストレスという言葉をご存知だと思いますが、ストレスには“快いストレス”と“不快なストレス”があります。
快(こころよ)いストレスとは、ゲームを楽しんでいるときに感じるようなストレスです。

人はゲームで遊びながら、不安・焦り・恐怖・迷い・悩み・イライラなど、さまざまなストレスを感じています。
敵を倒せるか不安になったり、制限時間に焦ったり、ジェットコースターで恐怖したり、迷路で迷ったり、クイズで悩んだり……
といった感じです。
これらのストレスは不快なものではなく、快いものだと思います。
だから人はお金を払ってでもゲームをしたがるのです(程度や種類に個人差はありますが)

ストレスのないゲームはゲームとしてなりたちません。
(快い)ストレスがあるからこそゲームはおもしろいのです。
トラップ意識もいわばストレスです。
それを快くするか不快にするかは、その人しだいです。

不快なストレスとは、いわば“苦悩”のことです。
ただ苦しいだけで一刻も早くなくしたいタイプのストレスです。

不快なストレス(苦悩)をカンペキになくすことはできません。
だから、
「悩み苦しみをなくしたい(T_T)」
などと不可能なことを思わないことが大切です。

わたしへのメールで、
「ネガティブ思考(=苦悩)をなくしたい」
「どうしたら悩み苦しみをなくせますか?」
といった不可能なご要望・ご質問をされる方がいらっしゃいますが、このタイプの人は、
“苦悩をなくす or なくせない”
といった2進法からぬけだす必要があります。
かわりに弁証法で考える練習をすることが大切です。
弁証法Ctrl+F検索

今回の例を弁証法で考えると、
・不快なストレスを“なくす or なくせない”という2進法から
             ↓
・不快なストレスを“快いストレスに変える”という第3の方法が見いだせます。

ではどうすれば、不快なストレスを快いストレスに変えられるのでしょうか?
そのコツは、
“すべてゲーム”
だという真理を思いだすことです。

人生・ことば・数・リズム・バランス・時間……
などなど、この世には無数の概念がありますが、それらはすべてゲーム(あそび)です。
人生ゲーム・ことばあそび・数あそび・リズムゲーム・バランスゲーム・時間ゲーム……
といった感じです。
このブログの記事も、
ギブギブゲーム、今に生きるゲーム、人を思いやることに意識を集中するゲーム…
といった感じで、すべてゲームになっています。

木・石・怒り・悲しみ・立つ・座る…
といったゲーム(あそび)になりそうもない概念も、それぞれ深く掘りさげれば、それだけで書籍になるほど“おもしろい”世界が広が

っています。
“おもしろい”と感じた時点でそれはもうアソビです。

つまり、この世のすべてが神のアソビでありゲームなのです。

「どうしてもネガティブ思考してしまう(T_T)」
と苦悩する人は、モンスターハンターをしながら、
「どうしてもモンスターが出てきてしまう(T_T)」
と苦悩するのと同じです。
実際モンハンをしながら
「どうしてもモンスターが出てきてしまう(T_T)」
などと苦悩する人はいません。
なぜなら、
「そもそも自分はモンスターを狩るゲームをしているんだ」
ということを自覚しているからです。

「自分はモンスターを狩るゲームをしているんだ」
と自覚している人が、
「どうしてもモンスターが出てきてしまう(T_T)」
などと苦悩することはありません。

それと同じで、
「そもそも自分はネガティブ思考を刈るゲームをしているんだ」
と自覚すれば、
「どうしてもネガティブ思考が出てきてしまう(T_T)」
などとトンチンカンなことで悩まなくなります。
むしろ次から次にわいてくるネガティブ思考を、ゲーム感覚で刈りとっていくことができます。

他にも、
「どうしても今に生きられない(T_T)」
と苦悩しているときは、そもそも“今に生きるゲーム”をしていることを忘れています。
そのときは、
「そもそも自分は“今に生きるゲーム”をしているんだ」
と自覚すればOKです。
そうすれば、
「今に生きられない(T_T)」
という苦悩(不快なストレス)が、快いゲームストレスに変わります。

「快いゲームストレスに変えられない(T_T)」
と苦悩しているときは、そもそも“快いゲームストレスに変えるゲーム”の最中だということを忘れています。
そのときは、
「そもそも自分は“快いゲームストレスに変えるゲーム”をしているんだ」
と自覚すればOKです。

「なかなかゲームをしていると自覚できない(T_T)」
という苦悩なら、そもそも“ゲームしていることを自覚するゲーム”の最中だということを忘れています。

「どうしても苦悩からぬけだせない(T_T)」
という苦悩なら、そもそも“苦悩からぬけだすゲーム”の最中だということを忘れています。

それらのことに気づいたら、自分がゲーム中だということを自覚すればOKです。

“すべてゲーム”
だということを思いだせば、悩み苦しみが少なくなります。
なぜなら神はゲームそのものだからです。

「これはゲームだ(><)」
とムリヤリ思いこむのではありません。
「あっ、これはゲームだった( ゚∀゚ )」
と、思いだせばOKです。



●「これはトラップ意識だ!」と自覚する

以前のわたしは、
「この世はバーチャルゲームだ」
と思っているにもかかわらず、
「人間関係でゲーム感覚になるのはイケないことだ」
というトラップ意識にハマっていました。
それは自分にそんな意識があると気づいていなかったからです。
ぼんやり気づいたとしても、
「これはトラップ意識だ!」
「これはトラップゲームだ!」
と自覚していなかったからです。
だからトラップを解くことなく 無意識に放置していました。

当然そのころの私は人間関係に苦悩していました。
たとえば、
・変なプライド(くやしい・はずかしいなど)で ギブギブできないことがある
・感情(怒り・不安・優越感・変なプライドなど)をおさえられず 人にイヤな思いをさせることがある
…といった感じです。
つまり感情にあやつられて自分をコントロールできない状態でした。

少々の感情なら気力でどうにかなりますが、強い感情を気力でコントロールするのは不可能です。
たまにコントロールできても精神的にかなり疲れると思います。

以前のわたしは感情を気力だけでおさえようとしていたため、なかなかうまくいきませんでした。
いつも気を張っていたため人間関係に気疲れていました。
しかし、
「人間関係でゲーム感覚になるのはイケないことだ」
という意識に気づき、
「これはトラップ意識だ!」
と自覚してからは ちがいます。
自覚してからは それをトラップゲームとして解除できたため、
「人間関係も たかがゲームだ(^^♪」
と気楽に とらえられるようになりました。
だから変に気を入れることがなくなり、気疲れが激減しました。



●自分をコントロールするコツ

同時にネガティブな感情も激減しました。
なぜならゲームのキャラクターに本気でネガティブな感情(憎しみ・変なプライドなど)をもつことはないからです。
多少もったとしても大したことはありません。

たとえばモバゲーで、
1:キライなキャラA子に笑顔ではなしかける
2:くやしいからムシする
という選択肢があったらカンタンに1をえらべるからです。
「キライな人にも笑顔で話しかけるんだ!!がんばれ自分(><)」
などと気力をふりしぼることはありません。
ラクに自分をコントロールできます。
これがすなわち“ゲーム感覚”です。

自分をコントロールするには この“ゲーム感覚”になることが必須です。
逆にゲーム感覚にならない限り自分をコントロールするのは不可能だといえます。



●ゆらぎのゲーム

ゲーム感覚は永遠にはつづきません。
いちどゲーム感覚になってもまた いつもの感覚に戻ります。
(正確には“いつもの感覚=幻惑感覚”です。
 “いつもの感覚”は、ゲーム感覚(=神本来の感覚)を忘れて幻惑した状態です)

ゲーム感覚が続かないのは宇宙の法則(リズムや波動など)によるものです。
波動がゆらぐように わたしたちの意識も、
通常感覚~ゲーム感覚~通常感覚~ゲーム感覚……
と つねにゆらいでいます。
だから、
「ゲーム感覚がつづかない(><)」
という悩みはありえません。
幻惑(いつもの感覚)を楽しみつつ、
“幻惑する~我に返る~幻惑する~我に返る~”
というゲームシステムを楽しむのが良いと思います。

わたしは これを“催眠術ゲーム”としても楽しんでいます。
たとえば一度ゲーム感覚に目覚めても、神の催眠術で幻惑におちいります。
そのことに気づいたら、
( ゚д゚)ハッ!
と催眠術をといてゲーム感覚に目覚めます。
そうしてゲーム感覚に目覚めても神の催眠術で ふたたび幻惑におちいります。
そのことに気づいたら、
( ゚д゚)ハッ!
と催眠術をといてゲーム感覚に目覚め……
といった感じです。

幻惑は楽しむことが大事ですが、どうしても あるていどの苦しみ(ゲームストレス)を感じます。
だから「もうこんなゲームはいやだ!」と思うこともあるかもしれません。
しかし その苦しみは永遠ではありません。
ゲーム感覚になればなるほどゲーム感覚%は上がり、幻惑%は下がっていきます。
以前のわたしはゲーム感覚1%くらいでしたが、今は80%くらいになっていると思います(当社比)
そのぶん幻惑%が下がっているので、今は大して苦しくありません。
むしろ幻惑を「おもしろい♪」と思えています。

ゲーム感覚を高めれば高めるほど自制心も高くなります。
感情をおさえ自分を自由にコントロールできるようになります。
それは神がゲームそのものだからです。
ゲーム感覚を高めるということは神に近づくことです。
100%ゲーム感覚とは神の感覚そのものです。



●具体的にゲームをやる

ゲーム感覚になる呪文は「ゲーム感覚」です。

「ゲーム感覚」
と思えば なんとなくゲーム感覚になれると思います。

しかしそれではゲーム感覚になれないときもあります。
たとえば強烈に憎い人を前にすると、
「ゲーム感覚、ゲーム感覚…」
と思っても、
「憎い!殺したい(|||゚Д゚)!!!」
とネガティブな波動が強すぎて とてもゲーム感覚になれないかもしれません。

その原因に“ゲーム感覚”というコトバ(呪文)の弱さがあります。
“ゲーム感覚”
という概念が わりとボンヤリしているため、呪文としての効果が弱い面があるのです。

たとえば、
「ゲーム感覚になってください」
といわれても、人によっては、
「それってどんな感覚?
 具体的にどうすればいいの?」
と、なかなかゲーム感覚になれないと思います。

そのようなときは“ゲーム感覚”という概念を、もっと具体的にすればOKです。
たとえば、
“演劇ゲーム感覚”
にすれば、
・幸せキャラを演じる
・幸せキャラの思いそうなことを思う
・カメラ(神の目)を意識して行動する
といった具体的な行動がとれるようになります。
そうすれば憎い相手にもゲーム感覚になりやすくなります。
ゲーム感覚で自分をコントロールして、ギブギブしたり優しくしたりしやすくなります。
これが呪文を強めるということです。

とはいえ“ゲーム感覚”などのボンヤリしたコトバが適したシチュエーションもあります。
とくにネガティブな感情のない平常時などは、
「ゲーム感覚ゲーム感覚…」
と ぼんやり思っているほうが疲れなくて良いかもしれません。

固定観念にしばられず臨機応変に対処してくださいね。


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ポイントゲーム

2014.04.19.21:19

わたしはゲーム感覚を高めるために、
“ポイントゲーム”
をしています。

基本的にゲームは すべて“ポイントゲーム”です。
“ゲーム=ポイントをかせぐこと”
だといえます。

テニスやサッカーのようなポイント制のゲームじゃなくても、
“ジャンケンに1回勝てば1ポイント”
“3人のスゴロクで 1番にあがれば3ポイント”
“パチンコで5000円勝てば5000ポイント”
…という感じがすると思います。
ジャンケンもすごろくもパチンコも ある意味すべてポイントゲームなのです。

ブログに書いてある法則も すべてポイントゲームです。
ギブギブ・波動・カルマの法則など、すべてポイントゲームです。
(1ギブギブで 1ポイントとか、1つ良カルマをつくったら1ポイントとか)



●キャラクターゲームを優先する

わたしは優先的にキャラクターゲームのポイントをかせいでいます。
なぜなら宇宙の基本はキャラクターの法則(納得の法則)だからです。
だからキャラクターゲームを優先しないと いろいろ不具合がおきてきます。

たとえばマネーゲームを優先すると、
「給料が安い(-_-;)ウジウジ」
「あっちの店の方が安かった(-_-;)ウジウジ」
「買ったばかりの○○が壊れた(-_-;)ウジウジ」
「もったいない(-_-;)ウジウジ」
「将来が不安だ…。
 日本は どんどん高齢化が進んで 年金も少なくなるし…。
 病気になったらどうしよう(-_-;)ウジウジ」
…といった感じでネガティブな不幸キャラになってしまいます。
自分ではそのつもりはなくても、お金やモノについてアレコレ考えているときはマネーゲームを優先していることが多いです。
そして不幸キャラになっていることが多いです。
しかし いくら給料をかせいでも(=マネーポイントをかせいでも)不幸キャラは不幸になります。
しかし いくら安く買い物しても(=マネーポイントをかせいでも)不幸キャラは不幸になります。
いくら もったいない精神(=マネーポイント大切に精神)をもっていても、不幸キャラは不幸になります。
いくら 年金をもらえても(=マネーポイントをもらえても)不幸キャラは不幸になります。

また 徳ゲーム(カルマゲーム)を優先して、徳ポイント(良いカルマポイント)をつもうとすると、
“ムリして善行キャラ”
“親切の押し売りキャラ”
などの不幸キャラになりがちです。
または、
「わたしは マジメに生きて(徳ポイントをつんでいる)のに、あいつらは悪いことばかりしている(-_-;)イライラ」
「わたしは募金やボランティアして(徳ポイントをつんでいる)のに、あの人たちは何もしていない(-_-;)イライラ」
「わたしは ちゃんと徳(ポイント)をつんでいるのに、あいつらはゼンゼン徳をつめていない( ̄ー ̄)ニヤリ(優越感)」
…といった不幸キャラにも なりがちです。
不幸キャラは悪いカルマ(マイナスポイント)をつくるので うまく徳がつめません。

しかしキャラクターゲームを優先すれば当然ながら不幸キャラになりにくいです。
キャラクターゲームを優先するということは“幸せキャラ”になることを優先するということです。
言いかえれば“幸せキャラポイント”を優先して かせぐということです。
幸せキャラでありさえすれば、なにをどうやっても幸せになれます。
マネーポイントをかせごうが かせぐまいが幸せになれます。

つまり幸せキャラポイントを優先することが、結果的に最も効率よく徳ポイントをつむ方法になるのです。



●幸せになりそうなキャラを演じる

「幸せキャラとはなんなのか(-_-;)」
「どうすれば幸せキャラになれるのか(-_-;)」
などと悩む必要はありません。
悩んだ時点で不幸キャラです。

今の自分に分かる範囲で、
“幸せになりそうなキャラ”
を演じればOKです。
神様はムリを言いません。



●欲のエネルギーを利用する

わたしたちには、
「欲をみたしたい=ポイントをかせぎたい」
という本質があります。

たとえば金欲をみたすことはマネーポイントをかせぐことであり、
名誉欲をみたすことは名誉ポイントをかせぐことであり、
知識欲をみたすことは知識ポイントをかせぐことである……
といった感じです。

欲には強いエネルギーがあります。
名誉欲をみたすために血のにじむような特訓をしたり、
食欲をみたすためにラーメン店の行列に何時間もならんだり、
100円安い(100マネーポイントかせげる)からと わざわざ遠いスーパーまで出かけたり……etc
欲のエネルギーがなければ、そんな しんどいことはできないと思います。

欲のエネルギーは強いです。
それに支配されると食べすぎて病気になったり、買いすぎて破産したり、あげく犯罪をおかしたり…
と自分をコントロールできなくなります。

しかし欲を支配すれば そのエネルギーを利用して逆に自分をコントロールできるようになります。

たとえば普段 感情的で自分をコントロールできない人でも、仕事なら あるていどコントロールできます。
接客業の人が、
「恥ずかしい(変なプライド)」
「ムカつく客だ(怒)」
といった感情をおさえて客にギブギブできるのは、金欲・名誉欲などがあるからです。
「お給料をもらいたい(金欲)」
「ヘタな仕事をして人から見下されたくない。
 イイ仕事をして良く見られたい(名誉欲)」
「プライドなんか一銭にもならん!
 そんなもの捨てて営業スマイルでゼニをかせぐんや!(金欲)」
といった欲のエネルギーがあるからです。
それだけではないと思いますが欲のエネルギーが貢献しているのはたしかです。

わたしは仕事のときだけでなく普段からこの方法をつかっています。
いつもなら、
「こいつムカつく(怒)」
「なんでこっちから挨拶しなきゃいけないんだ(変なプライド)」
などの感情でギブギブできないシチュエーションでも、
「幸せキャラになって、幸せキャラポイントをかせぐぞ┗(¥∀¥)┛♪」
と思えば だんぜんギブギブしやすくなります。

いつもなら、
「恥ずかしい(変なプライド)」
「嫌われてるかも(恐れ)」
「変に思われたくない(変なプライド)」
などの感情でオドオド挙動不審になってしまうシチュエーションでも、
「幸せキャラを演じて、ポイントをガンガンかせぐぞ┗(¥∀¥)┛♪」
と思えば幸せキャラのように洗練された行動がとれるようになります。

実際は、
「幸せキャラになって、幸せキャラポイントをかせぐぞ┗(¥∀¥)┛♪」
といった長い呪文ではなく、
「ポイント」
などと一瞬 思うくらいです。
それだけで ここに書いたことを あらかた思いだすことができます。
そしてポイントゲーム感覚になることができます。

欲のエネルギーを利用すれば 自我のコントロールがラクになります。
逆に利用しなればコントロールはムズカシイと言えます。

欲のエネルギーを利用するには、
「欲は悪いものだ」
「欲は汚いものだ」
といったトラップ意識をはずす必要があります。
欲は おカネと同じで それじたい悪くも汚くもありません。
使い方しだいで害にも益にもなるエネルギーです。
そのことをハッキリ理解しましょう。

といっても ポイント欲に目がくらんで不幸キャラ(親切の押し売りキャラなど)にならないように気をつけてください。
相手の気持ちにシンクロするシンクロゲームも大事ですね。


欲のエネルギーをつかっても やりたくないことをムリにやる必要はありません。
「これをやらなければマイナスポイント(悪いカルマ)になるかも(=o=;)
 でもやりたくない(=o=;)
 でもやらなければマイナスポイント(悪いカルマ)になるかも(=o=;)ウジウジ」
…などと不幸キャラにならないように注意です。
わたしは このようなとき、
「ムリなく できることを精一杯やれば大丈夫(^O^)/」
「できる限りのことを精一杯やろう(^O^)/」
などのセリフで幸せキャラを演じています。
そうすればムリをせず、しかし精一杯 生きる、というバランスのとれた幸せキャラになることができます。

幸せキャラのイメージは人それぞれ違います。
みなさん自分なりの幸せキャラを演じてくださいね♪



●徳をつもうと思わない

いざポイントゲームをやりはじめると、
「ポイントかせぎでイイことするなんてイヤなやつ(不幸キャラ)じゃないの?」
というトラップ意識が わくかもしれません。
なので解除しておきましょう。

たしかに神への理解がたりないと、
「ポイントをかせいだら あとでイイことがあるぞ(`∀´)イヒヒ」
というアコギな不幸キャラになります。
その後、
「そんな動機でイイことするなんて、私は汚い人間だ…(-_-;)」
と罪悪感におちいって さらに不幸キャラになります。
しかし理解が足りていれば そうなることはありません。

こうした不幸キャラになるときはキャラクターゲームよりも徳ゲームを優先しています。
なぜならキャラクターゲームをしていれば不幸キャラにはならないからです。

徳ゲームを優先すると不幸キャラになりがちです。
「わたしは悪いことをして(徳ポイントを失って)しまった(-_-;)ウジウジ」
「わたしが不幸なのは前世であまり徳(ポイント)をつんでないからだ(-_-;)ウジウジ」
「もっと善行しないと(徳ポイントをつまないと)幸せになれない(-_-;)ウジウジ」
「ポイントかせぎでイイことするなんて、わたしは汚い人間だ(-_-;)ウジウジ」
…といった感じです。

そのことに気づいてから わたしはあえて、
「徳をつもう」
と思わなくなりました。
代わりに、
「幸せキャラになろう(幸せキャラポイントをつもう)」
と思うようになりました。
そうすると不幸キャラにならずにすむので効率よく徳をつむことができます。


厳密には“幸せキャラになること”も“徳をつむこと”に入ります。
しかし概念的に“徳をつむこと”を優先するとうまくいかず、
“幸せキャラになること”を優先するとうまくいきます。
それは徳の法則よりもキャラクターの法則(納得の法則)の方が階層的に上だからです。



●ポイントかせぎは神の本望

幸せキャラを演じるときですら、
「ポイントかせぎでイイ人を演じるなんて 汚いことだ(-_-;)」
という罪悪感(トラップ意識)におちいるかもしれません。

このトラップ意識をなくすには、
“神=ゲームそのもの”
“ゲーム=ポイントをかせぐもの”
という真理を思いだすことが大切です。

つまり、
「ポイントをかせぐこと(=ゲームであそぶこと)は汚いことでもなんでもなく神の本望である」
という真理を思いだすのです。

わたしは そのために、
「(神のゲームは)おもしろいな~♪」
「(ポイントゲームは)めちゃ楽しい♪」
などといったコトバを思います。
すると、
「わたしはアコギな理由でポイントかせぎしているのではなく、純粋にポイントゲーム(=宇宙そのもの)を楽しんでいるんだ」
という真理を思いだせます。
そうすれば純粋に無邪気に神のゲームを楽しむ幸せキャラになれます。

だから わたしはポイントかせぎに まったく罪悪感を感じません。
むしろ、
「わたしは神の心にかなっている(^^)v」
という充足感をおぼえます。
それはゲーム(=ポイントゲーム)であそぶことが神の本望だと理解しているからです。



●一点集中ゲーム

わたしたちは無意識でいるとアレコレ余計なことを考えてしまいます。
しかし意識を一点に集中すれば、余計なことを考えずにすむと思います。

“ポイント”とは“点”のことです。
だからポイントゲームは、
“意識を一点に集中するゲーム”
ともいえます。
いわば“一点集中ゲーム”です。

この「一点集中」というコトバは使えます。
たとえば、
「今に一点集中」
「幸せキャラに一点集中」
と思えば雑念を消して それのみに一点集中することができます。
そうすればアレコレ余計なことを考えて苦しまずにすみます。
もちろんカンペキな一点集中はムリですが、このコトバを意識するだけで ずいぶん違うと思います。


いちど一点集中しても永遠にはつづきません。
やがて意識は拡散してアレコレ考えはじめます。
それは宇宙に“集中と拡散の法則”があるからです。

たとえば呼吸は、吸う(集中)と 吐く(拡散)のくりかえしです。
物質は、生成(集中)と解体(拡散)のくりかえしです。
学校も、登校(集中)と下校(拡散)のくりかえしです。

同じように意識も、集中と拡散のくりかえしです。
・今に一点集中
  ↓
・意識が拡散して雑念がふえる
  ↓
・今に一点集中
  ↓
・意識が拡散して雑念がふえる……
といった感じです。

これは自然法則なので、
「なかなか今に集中できません(><)」
「アレコレ余計なことを考えてしまいます(><)」
といった悩みはありえません。
それ自体をゲームと解釈して、
「おもしろい( ̄ー ̄)ニヤリ」
と思うことが大切です。

“点”とはカンペキな正円です。
しかし ●(←正円)だけではつまりません。
★や❁など いろいろな型に拡散して いろいろな型を楽しむのが神の本望だと思います。

ファッションセンスを良くするコツ

2014.05.02.22:25

イケメンや美人のファッションはあまり参考になりません。
彼らが着ると、どんなダサい服でも髪型でもそれなりにかっこよく見えてしまうからです。

ファッションを参考にするときは、自分と同レベルの人をお手本にするのがおすすめです。
彼らの中には、ファッションのおかげで、元々のポテンシャルよりずいぶん良く見える人がいます。
自分に似合ったファッションがわかるまでは、彼らのスタイルをそのまま真似すれば、手っ取り早くおしゃれになれます。

そのとき気を付けたいのが「髪型」「服」などと、単品を取り出して真似しないことです。
バランスが悪くなってダサくなる恐れがあります。
「髪型+髪色+ファッション」のトータルでコーディネートを真似するのがポイントです☆


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