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逆位の波動

2013.02.09.00:13

波には“逆向きの2つの波が重なると消滅する”性質があります。

      逆位の波動s   
   
この性質を利用して、悪い波動が起こったときには、それと正反対の波動ぶつけて、相殺するイメージを持つと効果的です。


  逆位の波動2s


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魂は進化する

2013.03.04.19:14

最高の幸せを味わうためには、人間力をアップする必要があります。
人間力がなくては、なにかにつけてネガティブになってしまい、幸せを感じることができないからです。

人間力をアップさせるということは、すなわち自分を“進化”させるということですよね(進化の法則Ctrl+F検索)
私たちが生まれ変わりを繰り返すのは、たくさんの経験を積んで自分を進化させるためだと言えます。

そうすると、『虫や動物も生まれ変わるの? 動物は「自分を進化させよう!」なんて思わないよね?』
という疑問が出てくるかもしれません。

物質的な進化でよく知られているのは、
「無機物→有機物→単細胞生物→多細胞生物」というものです。
つまり、水や酸素などの単純な“無機物”が、より複雑な“有機物”へと進化し、それがさらに複雑な“生命”へと進化したという説ですね。

魂もこれと似たような進化経路をとることがあります。
「鉱物→植物→動物→人間→神」
という順に生まれ変わりながら、自分を成長させるという方法です。

基本的に、進化の方向にそって“できること”が増えていきます。
水などの無機物よりも、有機物である生物の方が、より“できること”が多いですよね。
水は自分の意思で動くことはできませんが、生物は自主的に動くことができます。
酸素は思考することができませんが、生物は自分の頭で考えることができます。
植物よりも動物、動物よりも人間…と、できることが増えていくのはもちろんです。

同じ人間でも、魂が進化するにつれて、できることが増えていきます。
例えば魂が未熟な人は、自分の感情や行動をなかなかコントロールすることができません。
太りたくないのに食べてしまったり、人に好かれたいのに人見知りしてしまったり、悩みたくないのに悩んでしまったりします。
しかし魂が進化すると、自分の本当にやりたいことが、思うままにできるようになります。
誘惑に負けず健康的な生活をし、すぐに悩みを中断して、いつも幸せな気分でいられるようになります。

最高の進化形である“神”は、もはや万能の存在です。
人類が神に対して“なんでもできる大魔法使い”のようなイメージを持っているのはそのためです。


“進化”を言い変えると“学習することによって自分を成長させる”という意味になると思います。
私たちは色々なことを経験し、学習することによって自分を進化させています。

そうすると、「鉱物や植物に学習することなんてがあるの?」という疑問がわいてくるかもしれません。
学習もなにも、鉱物や植物には“意識”すらないように思えます。
しかし、この世にありとあらゆるモノには神の意識が宿っています。
宿っているというより、すべてのモノは“神という大きな意識”のミニチュア版です(入れ子の法則 Ctrl+F検索)
鉱物や植物の意識は、まだ子ども(ミニチュア)なのでので、複雑な思考をすることはできません。
しかし、確かに意識はあります。

例えば植物に「ありがとう」と声をかけ続けると、明らかに成長が早くなるという実験があります。
また、水に「ありがとう」と言い続けると結晶がキレイに整うのに対し、「ばかやろう」と言い続けると、結晶がグチャグチャに乱れてしまうという実験もあります。
(私たちの身体の60%は水分でできていますから、ネガティブな波動がいかに体に悪いかがわかりますね)
これらの実験は、水や植物にも意識があるということを物語っていると思います。

鉱物でも植物でも、それぞれの立場に応じて学べることはいくらでもあります。
鉱物なら“自主的に動くことができず、成されるがままま”ということがどのようなものかを学ぶことができます。
植物ならそれよりももう少し自由度が高い状態を学ぶことができますし、光合成によって太陽のありがたみを学ぶこともできます。
どんなモノにも、学ぶことは無限にあるのです。


ところで、ヒトには“他者の気持ちを想像して、疑似体験できる能力”が備わっています。
簡単に言うと“思いやる能力”です。
私たちは、自分が実際に体験していなくても、
「あんなことされたら悲しいだろうな」
「あんなこと言われたら腹が立つだろうな」
と、相手の気持ち想像する(思いやる)ことができます。
しかし人間以外の動植物には、ほとんどこの能力はありません。
だから平気で盗んだり殺したりします。
それは、動物の魂が進化レベルで言えばまだ“幼児期”にあるからです。
幼児は基本的にワガママで思いやりがありませんよね。

「動物は戦争しないし、環境破壊もしない。人間より思いやり能力があるのでは?」と思われるかもしれませんが、それは動物に思いやりがあるからではなく、そこまでの行為をする知能が備わっていないだけです。
これは思いやり能力と切り離して考える必要があります。
なかには動物より思いやりのない人間もいますが、トータルで見るとやはりヒトがもっとも思いやり能力に長けていると言えます。
なぜなら人間の魂は、「鉱物→植物→動物……」と、さまざまな立場を経験してきているからです。
だからこそ自分ではない他者の気持ちを想像し、思いやる(疑似体験する)ことが得意のなのです。
同じ人間でも、魂が未熟なほどこの能力は低くなり、進化するほど高くなります。

バランスゲーム

2013.03.29.21:11

この世は私たちが幸せを味わうために作ったゲームだということをお話しました。
このゲームはいろいろな要素から作られています。
バーチャルゲームの要素、
謎解きゲームの要素、
ままごとゲームの要素……などです。

なかでも“バランスゲーム”の要素は大切です。
バランスゲームとは、“バランスの法則を楽しむゲーム”のことです。

この世はバランスの法則(=中道)でできています。
バランスを良くすればするほど、人は幸せを感じるようにプログラムされています。

たとえば、食事のバランスを良くするほど、人は健康になり、幸せになります。
仕事と家庭のバランスを良くするほど、人生は豊かになり、幸せになっていきます。

人はバランスの良いものに触れると“美しい”と感じるようにできています。
美人をみて美しいと思うのは、顔のバランスが整っているからです。
美人に比べてバランスのとれていない顔のことを、“不美人”といいます(スミマセン)

美しい音楽とは、音の調和(バランス)がとれている状態のことです。
逆に、調和のとれていない不協和音を聞かされると、不快な気持ちになったりします。

このようなルールの中で、私たちはいかに幸せを感じていくか、というゲームをしているのです。



●自分がバランスゲームをしていることを自覚する

しかしなかには、いま自分がバランスゲームをしていることにほとんど気づいていない人がいます。
そのような人は、あっちへ転び、こっちへ転び、イタい人生をおくるハメになってしまいます。

例えば以前の私は、「人を幸せにすることが大事なんだ」と思えば、自分のことをそっちのけで、つい人のことばかりやってしまうところがありました。
自分と他人をバランスよく幸せにすることが大事なのに、なかなかそれができませんでした。
それは私の中に、「私は良いことをしている」という“おごり”や、
「早く徳を積みたい」という“焦り”
「良いことをしないと悪いことがあるかもしれない」という“恐れ”
「私がこの人を救わないと、この人はずっと苦しみ続けるかもしれない」というありえない“不安”などがあったためです。
それらネガティブな波動が邪魔をして、バランスの法則が見えなくなっていたのです。

しかしここで、「私はバランスゲームをしているんだ」と、はっきり自覚すれば、このような悲劇におちいらずにすみます。
自分と他人をバランスよく大事にしようとするからです。
無理して自己犠牲することもなくなります。

いかに早く「自分はいまバランスゲームをしているんだ」ということに気づけるかがポイントです。


関連記事 『中道


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ファジーの法則

2013.04.10.20:24

●この世に“完全”はない

悩みやすい人、怒りっぽい人など、ネガティブな性格の人に多く見られる特徴があります。
それは、“完全主義者”だというです。
完全主義者とは、ものごとを“0か100か”“白か黒か”で考えたがる人のことです。

完全主義者は、
「あの人は良い人! あの人は悪い人!」
「この考えは正しい! あの考えは間違い!」
と、どちらか両極端で考えがちです。
発想がかたよっていて、中道で考えるのが苦手です。


しかしこの世に“完全”はありません。
100%完全に良い人、100%完全に悪い人、
100%正しい考え、100%間違った考え、
…といったものは存在しないのです。
どんな善人でも1%は間違ったところがありますし、どんな悪人でも1%は良いところがあるものです(ユダヤの法則)

完全主義者は、人がちょっと間違ったことをすると、その人の人格を“全て”否定してしまうところがあります。
例えば、有名人が犯罪を犯したとすると、「あいつはロクでもないやつだ」と、全人格を否定します。
ある政治家に愛人がいたとわかると、「愛人のいるやつが何をいう」と、その政治家の言うこと全く聞かなくなってしまいます。
ある本に間違ったかしょを見つけると、「この本は間違っている!」と書いてある内容を全否定してしまいます。

しかしこの世に完璧な人間はいません。
どんな聖人でも、たまには悪いことをしてしまうものです。
それなのに完全主義者は「悪いことをした=100%悪人だ」と極端に考えがちです。

しかしそういう完全主義者が、まったくもって完全ではないはずです。
これまでいろいろ間違いを犯してきたはずです。
それはこのブログを読まれているみなさんもそうだと思います。

では、みなさんは頭から爪先まで100%の悪人なのでしょうか?
朝から晩まで悪いことしか考えていない大悪人なのでしょうか?
そんなことはないと思います。
むしろ、できるだけ悪いことはせず、心のままに正しいことができるような人間になりたいと思っているはずです。

それなのに他人から、
「あんたは嘘をついた。どうしようもない大悪人だ。私は今後一切あんたのことを信用しない」
などと言われたらどうでしょうか?

「お前に私の何がわかる!?」
「私はそこまで悪い人間じゃない!」
「じゃあ、あんたは全く悪いことをしない100%の善人なのか!?」
と反論したくなるのではないでしょうか。

それはどんな犯罪を犯した人でも同じことです。

100%完全なる悪人というのはこの世に存在しません。
あなた自身がそうであるように、みんな自分の魂レベルなりに必死に生きているのです。
好きこのんで悪人になる人はいないのです。

※私は「完治しました」「全く悩んでいません」など、完全主義をにおわせる言葉を使うことがありますが、これはあくまで便宜上の言葉なので深くつっこまないでやってください^^;



●イデア

この世で完全なのは神だけです。
完全=神です。

それに対して、神の一部である、動物・植物・鉱物などの物質は、すべて“不完全”です。
私たち人間が不完全なのは言うまでもなく、植物も鉱物も、形がゆがんだり欠けていたり、どれひとつとして“完全”なものはありません。

完全に見える工業製品も、ナノレベルでみれば歪んでいます。
どんなにまっすぐなモノサシを作っても、それは完全にまっすぐではなく、ビミョーに歪んでいるのです。

この世の物質に“完全”なものはありません。
完全に丸いボールや、完全に四角い箱は存在しません。
原子も電子も、完全な球体ではありません。

完全な丸、完全な四角など、“完全”という概念は、人の頭のなかにだけあるものです。
だからこそ人は限りなく丸いボールや限りなく四角い箱が作れるのです。

このように、人の頭のなかにある完全なイメージのことを“イデア”といいます。
このイデアがすなわち“神”であると、哲学者プラトンは説いています。
私たちは、無意識のうちにイデアをお手本にして生きているのです。


物質だけでなく、言語・科学・思想などの“概念”も、神の一部が現れたものです。
だから、これらのものも、やはり不完全だといえます。
完全に正しい意見や思想というものは存在しませんし、人の気持を完全に伝えられる言葉も存在しません。
科学が完成する日も永遠にこないでしょう。



●パーセンテージで考える

0か100かの完全主義的思考から抜け出すのにはコツがあります。
それはなにごとも“パーセンテージ”で考えることです。

例えばこの世に、100%の悪人や100%の善人というものは存在しません。
ようはパーセンテージの問題です。

・聖人……ポジティブ率:99% ネガティブ率:1%
・一般人……ポジティブ率:40% ネガティブ率:60%
・凶悪犯……ポジティブ率:1% ネガティブ率:99%

このように、人の性質はパーセンテージで構成されています。
すべて悪に染まっているような人は存在しません。

人は無意識のうちに、
「アイツは犯罪者だから悪人だ。自分はボランティアしているから善人だ」
「あの人は神を信じてないからダメだ。自分は神を信じているから良い人だ」
と思いがちですが、神の目からみればドングリの背比べです。
ささいなパーセンテージの違いにすぎません。
一般人も犯罪者も大差ないと思います。



・盗人にも三分の理

「私は神を信じているのに、なんでこんなに不幸なんだろう」
「あの人は神を信じていないのに、何で幸せそうなんだろう」
という人も、やはり0か100かでものを考えています。

“信じる”ということも、“100%信じる・100%信じない”の2つに分けることはできません。
これもパーセンテージの問題です。

・聖人………信仰率:99%
・一般人……信仰率:20%
・凶悪犯……信仰率:1%

という感じで、どんな聖人でも100%神を信じきることはできませんし、どんな凶悪犯でも数%は神を信じているものです(限りなく0%に近い人もいますが…)
ときに凶悪犯が獄中で反省文を書いたり、神に祈ったりすることがあると思います。
そのような行為を見て「あんなのポーズだけだ」「神を信じているなら人殺しなんてするはずない」と非難する人がいますが、このような人は、「凶悪犯=100%悪人」という考えにハマっています。

こんなブログを書いている私も、ときに神を信頼できず、不安や恐怖を感じてしまうことがあります。
しかし人間である限り、100%神を信じられる日はこないでしょう(ユダヤの法則)
神を100%信じるということは、すなわち神そのものになるということです。


また、ものごとをパーセンテージで考えない人は
「わたし一人がゴミの分別をしたって意味はない。やるなら全員がやらないと」
「ちょっとくらい無農薬野菜を買ったって意味はない。やるなら全部無農薬にしないと」
という発想になりがちです。

しかし、パーセンテージで考える人は
「私のゴミは全体の0.0001%かもしれないけど、その0.0001%ぶんはゴミ業者の人を助けることができる」
「20%を無農薬にしたら、20%だけ土壌を救い、20%だけ体も健康になるだろう」
と柔軟に考えられます。
だから“なにもしない”という消極的な性格からぬけだし、身軽にアクションを起こせる積極的な人間になることができます。



・ヤ○ザも神を信じている

また、これを“知識率”で考えることもできます。
例えば、ヤ○ザはよく神社にいきます。
事務所には必ずといっていいほど神棚が祭ってあります。
つまりヤ○ザも神を信じているということです。

なのになぜ彼らは悪いことをしているのでしょうか?
それは信仰率が低いというのもありますが、その他にも“知識率”の低さがあげられます。
つまり彼らは神に関して、

・お賽銭をたくさんすれば味方してくれる
・真剣に拝めば、どんな悪いことにも力を貸してくれる

…ていどの知識しかないということです。

たしかに低級な自然霊にはそういう面もありますが、それが自然霊(神)のすべてではありません。
自然霊には高級なものから低級なものまでさまざまありますし、神の法則はもっと複雑で奥深いものです。

神に対する知識をパーセンテージで表すと…

・神………知識率:100%
・聖人……知識率:50%
・普通人…知識率:3%
・ヤ○ザ…知識率:3%

あくまでイメージですが、だいたいこんな感じではないでしょうか?
知識率でいえば、ヤ○ザと普通人に大した差はないと思います。
ただ、普通人はヤクザにくらべて性質がおとなしいので、大それたことをしないだけです。
だから普通人はいつなんどき犯罪や自殺をおかしてもおかしくない危うさがあります。
神に対する知識が少ないからです。
そうならないためには、色々なことをたくさん勉強して、神に関する知識をたくさん身につけることが大切だと思います。



・100%の愛はない

ケンカや裁判のとき、両者の言いぶんが食いちがっていることがよくあります。
私たちはそれを見て、「どちらかがウソをついている」と思ってしまいがちですが、そうは言い切れません。

例えば結婚詐欺において、
A「あなた、恋愛感情はなかったでしょう」
B「いや、恋愛感情はありました」
というやりとりがあると思います。
しかしこの場合、Bが完全に嘘をついているとは言えません。
恋愛感情も“100%ある・100%ない”と2つに分けることはできないからです。
これもパーセンテージの問題です。
5%くらいの恋愛感情なら、誰でも簡単に持てるものです。
道ですれ違う人や、テレビのタレントなどを見て、ちょっと「いいな」と思うことは誰にでもあると思います。
人は責められると、自分を正当化したくなりますから、詐欺師はその5%を大げさに思い返します。
そしてあたかも自分は100%愛していたかのように思い込んでしまいます。
そして心の底から「恋愛感情はありました」と言うのです。
このとき、95%はウソを言っていますが、5%は真実を言っています。

逆に100%、完全に人を愛せる人もいません。
ときにはムカッとしたり、愛を感じないときもあると思います。
だから、
「100%君を愛している」
という言葉のなかには、数%のウソがふくまれているということになります。
だから、「自分は本当にこの人を愛しているのだろうか?」「「あの愛は嘘だったのだろうか?」などという疑念はナンセンスなのです。
そもそも100%愛している状態などありえないのですから。
しかしそれは寂しいことではありません。
なぜなら私たちは100%愛にあふれた状態(=神)にむかって永遠に成長し続ける存在だからです。
人間力を上げれば上げるほど、どんどん愛のパーセンテージはアップしていきます。
自分の愛も、他人からの愛も、どんどん深く、大きくなっていきます。
初めから愛に満ち溢れた状態よりも、さまざまな経験を通して愛を深めていくほうが絶対にドラマチックです。



・嘘つきはいない

「悪気はなかった」
「故意じゃなかった」
「殺す気はなかった」

これらの言い訳も、100%嘘だとは言い切れません。
どんな悪人にも数パーセントの善なる心は潜んでいます。
たとえ人を殺す瞬間でも、
・殺したい気持ち……99,99%
・殺したくない気持ち……0.01%
くらいの配分にはなっていると思います。
そしていざ裁判になると、その0.01%が自分の本心であったかのように思い返してしまいます。
人は自分を正当化したい生き物です。
だから殺人犯はしばしば「殺意はありませんでした」と訴えます。
それはある意味、本心で言っているのです。



・自己嫌悪しやすい人

私にメールをくださる方のなかには、
「なかなか人見知りが直りません」
「頑張っていますが、なかなかうまく喋れるようになりません」
「どうしてもネガティブ思考してしまいます」

…私って本当にダメな人間です……

と、自己嫌悪される方がよくいらっしゃいます。

このようなタイプの人も、やはり“0か100か”の考えにとらわれています。
つまり、人見知りが100%完全に直らないと、それは“直っていない”ことなのだと思っているのです。
ひとつのミスもなく完璧な喋れるようにならないと、“うまく喋れていない”ということになってしまっているのです。

しかし、そのような思考回路考えでいる限り、永遠に人見知りは直りません。
口下手もネガティブ思考も、永遠に直ることはないでしょう。

なぜなら人は、どこまでも不完全な存在だからです(ユダヤの法則)
この世で完璧なのは神だけです。
人は神に向かって、永遠に成長し続ける存在なのです。


私がつねづね“おもしろいな~”と思っていたコメンテーターの方が、
「私は話がうまくない。おもしろく喋れない。コミュニケーション障害だ」というようなことをおっしゃっていました。
しかしその方はコメンテーターをされているくらいですから、とても話がお上手です。
テレビやラジオだけでなく、トークショーもしているくらいです。
もちろん、ときには完璧に話せないこともあるのでしょう。
しかしその方がコミュ障なら、人類の90%以上はコミ障ということになってしまうと思います。

このように、人は“完璧”を求めている限り、永遠に自己嫌悪からは逃れられません。
トークショーができるレベルになってすら、「口下手でコミュ障」ということになってしまうのです。

こんなブログを書いている私も、見方によってはいまだに人見知りだと思います。
私の性格が、人懐っこさ99%でできていたとても、残りの1%の部分に目を向ければ、とたんに“人見知りな人”になってしまいます。
つまり、「今日は笑顔が足りなかった」「自分から挨拶できなかった」と、失敗した部分ばかりに意識を集中すれば、他の部分はどんなに良くても、「私はまだまだ人見知りだ…」ということになってしまうのです。


どんなに友達の多い人でも、少しは人見知りの部分があります。
プロのお笑い芸人さんですら、うまく会話に入れていないことがあります。
それなのに私たちが“100%完璧”なコミュニケーションをのぞむなんて、ナンセンスなことではないでしょうか。

人は“100%”を求めている限り、永遠に自己嫌悪し続けなければなりません。
そうならないためには、0か100かの考えをやめて、もっと“ファジー”になることが大切です。

ファジーには“あいまい、ぼやけた”などの意味があります。
このキーワードは重要ですので、これからくわしく解説させていただきます。



●完全主義の人は2進法の世界で生きている

コンピューターはとても優秀です。
人にはできない複雑な計算を、いとも簡単にやってしまいます。
しかしコンピューターがいくら優秀でも、やはり人間のほうが一枚上手です。
なぜならコンピューターを創ったのは人間だからです。
コンピューターに人間は創れません。
想造力という点では、コンピューターは人間の足元にも及ばないのです(想造とは“想像”と“創造”を合わせた造語です)
なぜでしょうか?

それはコンピューターが、二進法の世界で生きているからです。

2進法とは、0と1だけの世界です。
コンピュータの思考は、0と1の2パターンしかありません。
どんな複雑な処理も、この2つ数字のみによっておこなわれています。

2進法は、計算処理には便利ですが、何かを想造したり、柔軟に思考することには不向きです。
なぜならすべてを“0か1”でしか考えられないからです。
0でも1でもない第3の答えを想造することが苦手です。
つまり弁証法的な思考が不得手だということです(弁証法 Ctrl+F検索)

これは人間に例えると“完全主義者”です。
完全主義者は、0か100かでもの考えたがります。
それ以外の中間的な答えを想造することが苦手です。
だからいつまでもグルグルと同じことで悩んだり怒ったりしています。


コンピューターは優秀ですが、自分で自分を進化(バージョンアップ)させることができません。
コンピューターを進化させているのは、コンピューター会社の人間です。

進化とは、より良い考え方を編み出すことです。
0でも1でもない、別の考え方を想造することです。
これができるのは、二進法的にものを考えない人間だけです。

人生の苦しみから抜け出すためには、新らしい自分に進化する必要があります。
進化するためには、0か1かの発想をやめて、もっと柔軟でファジーな思考をこころがけることが大切です。


※10進法や16進法のコンピューターもあるよ!というツッコミはなしで^^;
何進法でも“決まった枠組みでしかものを考えられない”という意味で、言わんとしていることは同じです。
柔軟に考えてくださいね(^^)



●ファジー力

コンピューターは0か1かの世界です。
それは計算作業には向いていますが、柔軟性の求められる作業には向きません。

例えば人間は、どの写真を見ても「これは○○さん」と認識することができます。
横を向いていようが、笑っていようが、これは○○さんだ、とわかります。
しかしコンピューターはこのような作業が苦手です。
顔の角度や目鼻の位置が少し変わっただけで、すぐに「これは○○さんではない」と思ってしまいます。
それは人間に比べて“ファジー力”が低いためです。

ファジー力とは、ものごとをあいまいに、柔軟に考える力のことです。

コンピューターは0か1かの完全主義ですから、あいまい(ファジー)にものを考えるのが苦手です。
かたや人の脳はファジーにできていますから、少し顔の向きがが変わっていても「これは、たぶん○○さんだな」と、だいたいの感覚で判断することができます。


そもそも宇宙は、0か1かで割り切れるほど単純なつくりにはなっていません。
0と1のあいだには、0.1、0.11……と、無限につらなる数字があります。
0.1と0.11のあいだにも、0.111、01111……と、さらに無限の数字がつらなっています。
これらの数字はいくらでも分割することができます。
永遠に割り切ることができません。
それは切れ目のない、“ぼんやり”とした雲のような数字の群れです。

また、物質を分解すると原子になりますよね。
原子をどんどん分解していくと、それは1個2個と数えられるモノではなく、“波動”になってしまいます。
もしくは、「この物質はこういう性質があり、ああいう性質があり…」という“概念”になってしまいます。
波動も概念も、つかみどころのない、あいまいでぼんやりしたものだと思います。

人間も、ひとり、ふたりと数えられるものではなく、本来はグループソウルというぼんやりした魂のかたまりです。
グループソウルも、一個、二個と数えられるものではなく、本来は神というぼんやりした光のかたまりです。
光も“ここからここまでが光!”と明確に言うことができない、あいまいでぼんやりしたものだと思います。

このように、世界はそもそもファジー(=あいまい・ぼんやり)につくられているのです。
ファジーこそがこの宇宙の本質なのです。
だから、0か100かでものを考えたり、白黒はっきりさせようとすると、人生に行きづまることになります。


この世のすべては不完全です(ユダヤの法則)
不完全をいいかえると、“あいまい・ファジー”という言葉になると思います。
つまりユダヤの法則は、“ファジーの法則”ともいえます。

しかし、「この世には、ただひとつ完全なものがあります。それは神です」

ということを私はこれまで何度も書いてきました。
しかしこの説明も完全には正しくありません。

神は完全ですが、それでもさらなる幸せを感じようと、日々成長を続けています。
いまもなお、さらに賢く、幸せになっていこうとしているのです。
つまり神は完全であり、同時に不完全な存在だといえます。

わかりますでしょうか?
なんともファジーな説明です。
「完全であり不完全? そんなあいまいな説明うけいれられない! もっと科学的にハッキリ説明して!」
という人は、人生に悩みやすい人だと思います。

この世界はそもそもハッキリ割り切れるようにはできていません。
ファジーにものを考えられないと、いつまでも悩み苦しみ続けることになってしまいます。


基本的に、人間力とファジー力は比例します。
人間力の高い人ほどファジー力も高く、低い人ほどファジー力も低い傾向にあります。

ファジー力の低い人は
「あの枕じゃないと寝られない!」
「この服じゃないと出かけたくない!」
「恋人はあの人じゃなきゃ嫌だ!」
と、柔軟性にかけるところがあります。
特定のものにこだわり、他のものを受け入れられません。
そのせいで自分が苦しむのはもちろん、周りの人にも嫌な思いをさせています。

いっぽうファジー力の高い人は、
「別に他の枕でもいい」
「別に他の服でもかまわない」
「あの人だけが男じゃない。もっといい男をみつけよう」
と、柔軟に対応することができます。
だからストレスを感じにくく、いつもハッピーでいられます。

ファジー力の低い事務員さんは
「うちの会社はこういう決まりです。そういった要望はお受けできません」
とコンピューター的な対応をします。

いっぽうファジー力の高い事務員さんは、たとえ会社の決まりでも、つねに例外をもうけ、柔軟に対応してくれます。


ファジー力は、魂の成長と比例します。
だから子どものファジー力は、大人よりも低い傾向にあります。
また動物のファジー力も、人間に比べて低い傾向にあります。

基本的に子どもや動物の行動は反射的です。
“0”という刺激に対して“1”という反応をするという、決まったパターンで動いています。

「好物が出された」→「食べる」
「嫌いなものが出された」→「食べない」
「好きな人がいた」→「なつく」
「嫌いな人がいた」→「逃げる」
…という感じです。

「本当はピーマンは食べたくないけど、今日はお客さんの家に呼ばれているんだからしょうがない。ピーマンを食べよう」
と、柔軟に対応できる幼児はマレだと思います。
「アイツは嫌いで、本当は近づきたくないけど、たまにはギブギブの精神でいってみよう」
と、ファジーな対応をする猫もあまりいないと思います。



●失敗大歓迎!

コンピューターは絶対にミスをしません。
ミスするとしたら、人間の設計ミスです。
いっぽう人の脳はファジーですから、よくミスをします。
記憶もあいまいで、やることなすこと失敗だらけです。

かといって人間がコンピューターより劣っているかといえばそうではありません。
さきほど書かせていただいたように、想造力という点ではファジー思考のほうがよいのです。


脳は“消去法で成長する”システムになっています。
色々な方法を試し、「このやり方は違う」「この方法はダメ」と“失敗した方法”を消去していくことでどんどん成長していきます。

コンピューターは失敗しない代わりに成長もしません。
人は失敗しますが、そのかわりに成長することができます。
失敗のないところに成長はありません。
失敗しないと改善点がわからないため、成長のしようがないからです。
つまり失敗と成長はワンセットだということです。
このことが分かれば、「また失敗してしまった。私はダメ人間だ」と自己嫌悪したり、人の失敗にいちいち目くじらを立てたりすることが、いかにナンセンスかがわかります。

そもそも人類の歴史は、たえまない失敗の歴史です。
科学の進歩は、無数の失敗によってなりたっています。
エジソンですら、電球の素材を発見するまでに6000回も失敗したといいます。


また、コンピューターの世界は無味無臭です。
失敗がない代わりに、成長する喜びや感動がありません。
あれこれ試行錯誤することがないので、興奮も達成感も味わえません。
このような世界に、だれが生きていたいと思うでしょうか?

私たちが生きているのは、失敗のない完璧な人生をおくるためではありません。
さまざまな経験を通して、人生を味わい、感動するために生きているのです。
これこそ私たちがこのバーチャルゲームを作った目的だといえます。

ゲームとは、そもそも“試行錯誤を楽しむもの”です。
試行錯誤とは、ああでもないこうでもないと、さまざまな失敗を重ねながらゴールをめざすことです。
この試行錯誤こそがゲームの醍醐味といえます。
試行錯誤がまったく必要でない簡単なゲームなんで、つまらなくて誰もやろうと思いませんよね。
失敗と試行錯誤にエキサイトすることこそが、人生の目的なのです。


とはいえ、必ず失敗しなければならないというわけではありません。
私たちは元々ひとつの存在です。
他人の経験は、自分自身の経験でもあります。
自分がわざわざ失敗しなくても、人の失敗から学ぶことで余計な失敗をしなくてすむようになります。
そのためには、人の失敗をひとごとと思わず、いつも自分のこととして置きかえることが大切です。
そうすると、自分の失敗が減らせるだけでなく、人のやることにいちいち腹も立たなくなります。

例えば誰かにイヤミを言われたとき、「これで私は人にイヤミを言うという失敗をせずにすむ。事前に失敗を防いでくれてありがとう」と思えるようになります。
無愛想にされたときも、「これで私は人に無愛想にするという失敗をせずにすむ。事前に失敗を防いでくれてありがとう」と思えるようになります。
 
失敗は身近にいる人だけからじゃなく、テレビ、ニュース、本などからも学べます。
政治家、芸能人、犯罪者など、どんなに自分と立場が違う人でも、自分のばあいに置きかえて応用することは可能です。
人を見下したり、腹が立ちそうになったときは、事前にその人の失敗から学ばせてもらえることに感謝しましょう。



●ポジティブなファジーとネガティブなファジー
ファジーという言葉には使いようによって、ポジティブにもネガティブにもなってしまう言葉です。

ポジティブに使うと、“なにごとも0か100かで考えず、柔軟に、寛容に生きる”という意味になります。
ネガティブに使うと、“なにごともいいかげんにして、テキトーにだらしなく生きる”という意味になります。

どちらもファジーという言葉につながりますが、この2つはまったく別のものです。

ネガティブなファジーの代表として、天下り、年金問題、国の借金などがあげられると思います。

完璧にポジティブなファジーのみに生きるのは不可能ですが、できるだけネガティブなファジーにならないように注意してくださいね。
 

※ここに書かせていただいたコンピューターは古いタイプのもので、現代では多くのコンピューターに“ファジー理論”が取り入れられ、あるていどファジーな思考ができるようになっています。
 ここまでコンピューターのことをずいぶん悪く書いてしまいましたが、私は決してコンピューターが嫌いなわけではありません。
 むしろ、文句も言わず淡々と業務をこなしてくれる、超優秀なパートナーだと思っています。
 コンピューターにはとても感謝しています(^^ゞ



参考文献:記憶力を強くする―最新脳科学が語る記憶のしくみと鍛え方  池谷 裕二
     だれでも天才になれる脳の仕組みと科学的勉強法 池谷 裕二



●完全主義者の例

・嫌いな人が多い人

完全主義者は、苦手な人や嫌いな人が多く、そのせいで辛い人生をおくりがちです。
学校へ行けば「あの子が嫌い」
会社へ行けば「あの上司が嫌い」と、いつも辛い思いをしています。

それは無意識のうちに、
「あの子は私の悪口を言う。だから100%悪い人間だ」
「あの上司はヒイキをする。だから100%悪い人間だ」
と、0か100かで考えてしまっているからです。

しかしこの世に100%悪い人間はいません。
どんな人にも数パーセントは良い部分があります。
しかし完全主義者は、その数パーセントには目もくれず、他の悪い部分に意識の100%を集中しています。
だからいつもムカムカイライラ、辛い人生をおくっています。

このようなことにならないためには、例え1%しかなくても、その人物の良い部分に意識を集中することです。
1%の良い部分に、意識の100%を集中するのです。

とはいえ、ここでも“100”や“完全”にこだわってはいけません。
60%でも70%でも、自分にできる範囲で意識を集中していくことが大切です。



・人を見下しやすい人

また、完全主義者は人を見下しやすいところがあります。

「あの連続殺人犯はどうしようもない悪人だ。救いようがない」
「天下り官僚は、私利私欲にまみれたどうしようもないヤツらだ」
「アイツは悪人なのに、私より幸せそうにしているなんて納得できない。この世には神も仏もない」
…という感じです。

このような考え方は波動が悪いので、悪い出来事を引き寄せてしまいます。
完全主義者で、心から幸せな人生をおくっている人はいないでしょう。

人を見下しやすい人も、やはり
「天下り官僚は100%悪人だ」
「凶悪犯は100%の悪人だ」
と無意識のうちに思ってしまっています。

頭では100%の悪人などいないことは分かっていても、脳が反射的に“0か100か”で考えてしまっているのです。
これは単なる脳のクセなので、トレーニングで治すことができます(性格は変えられる



・言い争いの多い人

例えば人とケンカしたとき、つい「私が正しい! あっちが間違っている!」と思ってしまいがちです。
そして、色々な人の意見を聞いてまわったり、答えのでない問題をグルグル考えて、いつまでも嫌な気分を味わっています。
しかしこのようなばあい、どちらかの意見が100%正しいということはまずありません。

例えば、ケンカしているAさんとBさんどちらが正しいか、全世界で投票したとします。
そうすると、おそらく票は2つに割れるはずです。
どちらかが100%の票を集めることはまずないでしょう。

もしかしたら、Aさんの得票が99%で、Bさんが1%かもしれません。
しかし、どちらかが100%の支持をえることはないと思います。

なぜならこの世に“100%完全に正しい答え”などというものは存在しないからです。

もし誰かとケンカしそうになったとき、
「全世界で投票したら、自分には何%くらい票が入るだろう」
と考えてみてください。
そうすると、「相手にも30%くらいは票が入るかも…」という思いにいたるはずです。

100%完全とはいえない意見を人に押し付けるのは横暴ではないでしょうか。

人は神からそれぞれ違った個性を与えられています。
だから自ずと考え方も違います。
なのに自分の個性や考え方を押し付けるのは傲慢なことだと思います。

たとえ相手の支持率が1%しかなかったとしても、それを圧殺してよいということにはなりません。
少数意見だからといってそれを殺そうとするのは、少数民族だからといって彼らを無視するのと同じくらい非人道的なことだと思います。

また、自分の意見が100%完全ではないとわかれば、ケンカしてまで押し通す必要はないはずです。
大きな目で見れば、どちらの意見が採用されても、結果にそれほど差はないことに気がつくと思います。

つまり、完全主義者はどちらでも良いことをムキになって押し通そうとしているだけだということです。
そこにあるのは理性でも正義でもなく、ただの変なプライドです。
変なプライドにとらわれるような人の意見が、良い結果を招くとは思えません。

ホンジャマカの石塚さんにいたっては、100%自分が正しいと思っても自分から折れるというようなことをおっしゃっていました。
もちろん、ときには自分の意見を主張することも大事ですが、私は基本的に石塚さんのような心意気で人と接しています。
それで困ったことはなんら起こっていませんし、むしろことごとく良い結果になっています

※ここで、「じゃあ、相手がどんな危険な考えを持っていても、つねに賛成しなければならないの?」というような人は、まだ0か100かの考えにとらわれています。


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神様を信頼する

2013.04.20.20:51

不安、怒り、自己嫌悪など、ほとんどの苦しみは、“神様を信頼していない”ことが原因になっています。


●心配する人は神様を信頼していない

たとえば不安や心配は、
「神様は自分になにか悪いことをするかもしれない」
という疑いの気持ちからきています。
だって、もし「神様は絶対、自分を悪いようにはしない」と確信していたら、不安なんてないですよね。

「病気が心配だ」
「老後が不安だ」
「お金のことが心配だ」
「人から嫌われてないか不安だ」
「試験に受かるか心配だ」
…などなど不安や心配にはいろいろありますが、これらをつきつめれば、すべて“神様を信頼していない”ことの裏返しなのです。

確かに、病気が100%完全に治るとは限りません。
お金のトラブルがまったくないとも限りません。
試験に100%受かるとも限りません。

しかし試験に受からなかったからといって、それがすなわち“悪いこと”なのでしょうか?
そうではないと思います。
一時的にガッカリするかもしれませんが、長い目で見れば必ず自分にとってプラスに働くことになります。
病気も悪いことのように思えますが、長い目で見れば必ず自分の魂にとってプラスに働くことになります。


どんなに悪い状況に思えても、それは神様がしてくださったことです。
神様が私たちを悪いようにするはずがありません。
神様は私たちが最大限幸せになれるように、つねにベストをつくしてくれているのです。



●怒りっぽい人は神を信頼していない

怒りっぽい人も神様を信頼していません。
なぜなら怒りっぽい人は、
「相手に不快な思いをさせてでも怒ってやらなければ、なにか困ったことが起こるかもしれない」
という不安をもっているからです。

例えば子どもを怒る親は、
「子どもに嫌な思いをさせてでもガミガミ怒らなければ、将来ろくでもない子どもになるかもしれない」
という不安をもっています。

部下を怒る上司は、
「部下に嫌な思いをさせてでも怒って注意しなければ、管理不行き届きで自分の立場があやうくなるかもしれない」
という不安をもっています。

しかし、“怒って人に不快な思いをさせなければうまくいかない世界”などつくる神様がいるでしょうか?

この世界は私たちがつくった世界です。
100%私たちの納得のいくシステムになっています。

・怒って人に不快な思いをさせなければうまくいかない世界
・怒らず、愛と知恵で上手にさとせばうまくいく世界

どちらの世界に納得がいくでしょうか?
私は後者です。
だから実際に後者の世界で生きています。

私は日常生活で怒ることはまずありませんが、それで困るようなことはありません。
怒りたくなったら、神様を信頼して「別に怒らなくても困ったことにはならないんだ」ということを思い出しています。
そうすると、怒らずにすむ良いアイデアが浮かんできます。

もちろん、ときには怒ることが必要なばあいあります。
しかし実際は、怒るよりも他にもっと賢いやりかたがあるばあいがほとんどだと思います。



●焦る人は神を信頼していない

焦る人も神様を信頼していません。
ゲームなどで焦る感覚を楽しんでいるのは良いのですが、そうではなく、
「早く結婚しなきゃ!」
「流行に乗り遅れたくない!」
「ライバルに負けたくない!」
「ヤバイ! あの商品もう売り切れかも!」
などと、焦ることに苦しんでいる人です。
このような人は、
「焦って急がなければ、何か困ったことになるかもしれない」
という不安をもっています。

しかし、“焦って急がなければ困ったことになる世界”など、神様がつくるでしょうか?
そんな人を苦しめるような世界を神様がつくるはずはないと思います。

・焦って急がなければ困ったことになる世界
・焦らなくても、たんたんと今に生きていればうまくいく世界

どちらの世界に納得がいくでしょうか?
私は後者です。
だから後者の世界で生きています。

人生、ときには急ぐことも必要です。
しかし、“急ぐ”ことと“焦る”ことは違います。

急ぐとは、ただ作業のスピードを早めることです。
焦るとは、神様を信頼せず、“心配しながら急ぐ”ことです。
アタフタして、ムダに心を苦しめることです。

しかし神様を信頼していれば、どんなに急いでいるときでも、心はつねに余裕があります。
焦って苦しむことがありません。
むしろ急ぐことをゲームのように楽しむことができます。



●自己嫌悪、嫉妬、がんばりすぎる人は神様を信頼していない

自己嫌悪する人も神様を信頼していません。
なぜなら自己嫌悪する人は、
「自分は他人よりも特別におとっている。神は他人より自分のことをバカに作っている。神は不平等だ」
という怒りや不安をもっているからです。
だって、
「神様はすべての人間を平等につくってくれている。だからみんなも私と同じようにバカだし、同じように失敗する」
と思っていたら、自己嫌悪なんかしませんよね。


嫉妬する人も神様を信頼していません。
なぜなら、
「神は不平等だ。私よりアイツの方を優遇している」
「神はアイツに必要なものを与えているのに、私には必要なものを与えてくれていない」
と思っているからです。


無理してがんばる人も、神様を信頼していません。
なぜなら「無理してがんばらないと、神は自分をひどいめにあわせるかもしれない」と思っているからです。



●神様はミスしない

後悔する人も神様を信頼していません。
なぜなら、後悔とは、“ミスしたことを悔やむこと”だからです。

しかし神様はミスしません。
ミスをしないから神様なのです。
どんな失敗も、すべて神様の計画のうちです。
過去にどんな過ちをおかそうが、それはすべて神様の手のひらの上でおこったことです。
だからミスや失敗を後悔することは論理的におかしなことだと思います。

もちろんミスした原因を分析し、正しい反省をすることは大事です。
しかしそうではなく、ただ後悔することに苦しんでいる人は、
「自分(神)はミスをしてしまった…」「自分(神)は失敗してしまった…」と勘違いしてしまっています。
しかしそのようなことはありえません。
神様は完璧だから神様なのです。

「神様はミスしない。神様は完璧だ」
という視点で過去の失敗をふりかえると、すべてはさらなる成功のための失敗であることに気づくはずです。
自分を成長させ、より幸せな人生を歩むための失敗であったことが分かるはずです。

神は完璧ですから、つねにすべてを“ベスト”な状態にしてくれています。
どんなに悪い状況に思えても、それが今の自分にとってはベストな状態になっています。
だから心配したり、怒ったり、焦ったり、自己嫌悪したり、無理してがんばったりする必要はありません。
つねに神様を信頼して、ゆったり安心していてください。



●信頼度は徳の量に比例する

しかし、ふだんから積極的に徳をつんでいない人は、なかなか神を信頼することができません。
なぜなら、自分が神に好かれる根拠がないからです。
たいして徳もつんでいないのに、「自分はなにがあっても大丈夫だ」とはなかなか思えないものです。
そう思える根拠(=徳)がないからです。

むしろ、
「私はひごろの行いが悪いから、神様は罰をあたえるかも…」
「私は大して良いことをしていなから、神様も守ってくれないだろう…」
「この不幸はあのときの悪いカルマががかえってきたんだ…」
と、つねに不安や後悔にさいなまれてしまうことになります。

実際、徳をつんでいないから神様が罰を与えるということはありません。
ただ、自分で自分の行動に納得がいっていないので、どうしても自己矛盾に苦しんでしまうのです。

結局のところ、神様への信頼度は、徳の量に比例します。
なぜなら、徳をつめばつむほど、神様に好かれる根拠が増えていくからです。
徳をつめばつむほど「私は絶対に幸せになれる」「私は絶対大丈夫だ」と、自分に“自信”がもてるようになるからです。

自信とは、“自分を信頼する”ということです。

自分を信頼するということは、神様を信頼するということです(自分=神)

つまり、神様を信頼できるようになるためには、徳をつむことが大切だということですね。



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今に生きるコツ

2013.06.02.14:04

レッスン1で今に生きるということを
“今できることをやること”と書かせていただきました。
しかしこの説明だけでは少し足りないと思いますので、今回はもっと今に生きられるコツをご紹介させて頂きたいと思います。



●何もしていないときでも今に生きる方法

スポーツなどで体を激しく動かしているときや、勉強・仕事などで脳を激しく使っているときは、わりと簡単に今に生きられます。
そのことで脳がフル活動しているため、雑念の入る余地がないからです。
しかし、散歩、食事、日常の家事など、簡単なことをしているときほど、今に生きるのが難しくなってきます。
脳に余裕があるため、そのすきにネガティブ思考が入り込んでくるからです。
ボーっと歩いているときや、こなれた家事をしているとき、ふとユウウツな気分に襲われることがあると思います。
それは脳(魂)がそのようなしくみになっているからです(宇宙は真空を嫌う Ctrl+F検索)

だからネガティブ思考の入る余地がないように、つねに頭を忙しくしておくことが大切です。
かといって、ずっと脳を酷使しつづけるわけにはいきません。
一日中むずかしい勉強をしたり、慌ただしく仕事をするのは不可能です。
無理してがんばると、「つらい」「しんどい」など、悪い波動が出てきてしまい、かえって悪いカルマをつくってしまいます。
人間、ときには休むことも必要です。
しかし油断しているとネガティブ思考が入り込んできてしまいます。
ではいったいどうすればよいのでしょうか?



●すべての行為の目的は、“幸福感”である

あなたが何かをやっているとき、それは何のためにやっているのでしょうか?
必死になって勉強したり、仕事したりしているのはいったい何のためなのでしょうか?
ある人は夢のためだったり、またある人は家族のためだったりします。
人によってその目的はさまざまです。
しかし、すべての行為には共通した目的があります。

それは幸福感です。

勉強するのは、将来良い仕事をして幸福感をえたいからです。
仕事をするのは、お給料をもらって、より幸福感のある生活がしたいからです。
積極的に幸福感をえたいと思っていない人でも、「できるだけ嫌な思いはしたくない」「なるべく不幸な状況をさけたい」と思っているはずです。

積極的にせよ消極的にせよ、すべての行為には“幸福感”という目的があるのです。



●未来の幸福感にとりつかれない

以前の私はなかなか今に生きることができませんでした。
それは私が行動の目的を“未来”だけに置いていたからです。

「勉強して夢をかなえるぞ!」
「運動して体を丈夫にするぞ!」
「仕事をがんばって良い結果をだすぞ!」

これらはすべて、“未来”に目的があります。

夢がかなって幸福感がえられるのも、
体が丈夫になって幸福感がえられるのも、
仕事で良い結果を出して幸福感がえられるのも、
すべて“未来”のことです。
“今”ではありません。

私は今に生きているつもりが、いつのまにか未来の妄想に生きていたのです。
まんまと神のトリックゲームにハマっていました。

もちろん未来の目標にむかってがんばることは大事です。
しかしそのために“今”の波動が悪くなってしまっては本末転倒です。

目的を未来におくと、ついつい今の波動がなおざりになってしまいます。
つまり今、「しんどい」「やめたい」「地獄だ」と感じているのに、それを無視してがんばってしまうのです。
それは意識が未来に飛んでいて、“今”に集中できていないからです。

「夢がかなったらこの苦労もむくわれるんだ…」
「がんばって徳をつんで幸せになるんだ…」
などと、未来の幸せに心うばわれていると、“今”の波動がおろそかになってしまいます。
「自分はがんばってるんだ! 良いことをしているんだ!」という“おごり”も邪魔をして、今の「苦しい」という波動を無視してしまうのです。
がんばりすぎて心や体をこわしてしまう人は、このパターンだと思います。

がんばりすぎといえば聞こえはいいですが、私のばあいは単なる“強欲”でした。
以前の私は、鼻先にニンジンをぶらさげて、目を血走らせながら走るウマのような感じだったと思います。
本当は走りたくないのに、“未来の幸福感”というエサで自分をつって、無理やり走らせていたのです。
もちろん、人が何かをやるためには未来に目的を持つことは必要です。
それがなくては何もヤル気がおきません。
しかし、そのために“今”の波動が悪くなってしまっては本末転倒です。
波動の悪い状態でいくら一生懸命がんばっても、“今に生きている”とはいえません。
自分の出した苦しみの波動が、また苦しみのできごとを引き寄せてしまいます。

このようなことにならないためには、未来と同時に、“今”にも幸福感を求めることが必要です。
つまり、未来のためにがんばりながら、そのがんばるという行為そのものに幸せを感じるということです。
では、どうすればそのようなことができるのでしょうか?



●行為を目的にする

そのコツは“行為を目的にする”ことです。

以前、この世界はバーチャルゲームのようなものだということを書かせていただきました。
ゲームとは、いわば“遊び”です。
私たちは今、この瞬間も、バーチャルゲームという遊びをしている真っ最中です。

私たちは遊ぶことが大好きです。
私たちの最終目的はつねに“遊ぶこと”であり、すべての行為はそこにむかっています。
勉強しながら、仕事しながら、家事をしながら、
「これが終わったらマンガを読もう」
「ここまでやったらテレビを見よう」
「これを片付けたらゆっくり休もう」
などと潜在意識のなかで“遊ぶこと”を目的にしています。

休むことも遊びのひとつです。
私たちが遊ぶのは、もっぱら休み時間や休日です(当たり前ですが…)
休憩中にボーっとしたり、空想にふけたりすることも“心を遊ばせている”といえます。

では、私たちが“遊ぶ目的”とはなんでしょうか?

たとえばコンピューターゲームという遊びなら、“ボスをたおす”とか“ゲームをクリアする”といった目的があります。
しかし私たちはそのためにゲームをしているわけではありません。
「ボスをたおしたい!」とか「ゲームをクリアしたい!」などと思ってゲームを買う人はまずいないと思います。

私たちが高いお金をはらってゲームをやる目的は、ズバリ、“ゲームをやることそのもの” です。

私たちは、ゲームをやることそのものに幸せを感じるからゲームをしているはずです。
“ボスをたおす”とか“ゲームをクリアする”といった目的は、あくまでゲームを楽しむための手段でしかありません。
本当の目的は、ゲームをやる(遊ぶ)という行為そのものだと思います、

たとえばドラクエをしている人は、町を歩いたり、村人と会話したり、お店で買いものしたり…といった行為そのものから幸福感をえているはずです。
キャラクターが自分の代わりになって、いろいろな行動をすることじたいに楽しみや幸せを感じていると思います。
つまりゲームで遊んでいるときは、歩く、話す、買い物する…といった“行為そのものを目的にしている”ということです。

先ほど、“行為の目的は幸福感である”ということを書かせていただきました。
つまり、“行為そのものを目的にする”ということは“行為そのものに幸せを感じる”ということなのです。

行為とは、“今”しかできないものです。
歩くことも話すことも買い物することも“今”しかできません。
過去で歩いたり、未来で話すことはできません。

勉強する、仕事する、ボーっとする……など、ありとあらゆる行為は“今”しかできないものです。
つまり、“行為そのものに幸せを感じる”ということは、“今、幸せを感じる”ということなのです。

“今、幸せを感じる”ということは、すなわち“今に生きる”ということです。

いくら“今やるべきこと”をやっていても、その行為に幸せを感じていなければ、今に生きているとはいえません。
いくら必死になって頑張っても、心が苦しんでいれば今に生きているとはいえないのです。
苦しみがまったくない人生というのはありえませんが、できるかぎり“苦しむ”ことは避けるべきです。
自分が苦しむということは、他人を苦しめることになるからです(人は運命共同体公害人間になるな!



●“自分はゲームで遊んでいる”ということを自覚する

行為を目的にする…、つまり行為そのものに幸せを感じるためには、
「自分は今、バーチャルゲームで遊んでいるんだ」
ということを、つねに自覚することが大切です。

なぜなら人は遊ぶことで、今に生きられるようになるからです。
逆に、“遊んでいないと今に生きられない”ともいえます。

自分が遊んでいるという自覚のうすい人は、心に余裕がありません。
だからつい、必死になってものごとに取り組んでしまいます。
しかし、“必死”などという険しい波動は、天界の高いところ(天国)にはありません。

いわゆる“天国”をイメージしてみてください。
そこは、“おだやか”で“ゆったり”とした“楽しい”波動に満ちていると思います。
必死の形相で何かやっている人のいる天国は想像できないと思います。

必死は“必ず死ぬ”と書きます。
このような心境で“今に生きる”ことは不可能です。


ただ、遊んでいても、それに幸せを感じていないと、今に生きているとはいえません。
例えば、スポーツは遊びの一種ですが(スポーツすることをプレイする(=遊ぶ)といいますよね)、自分が遊んでいるという自覚の薄い人は、

・相手に勝って優越感をえる(ことで幸せを感じたい)
・すごいプレイをして名誉をえる(ことで幸せを感じたい)
・友だちをつくる(ことで幸せを感じたい)
・お金をもうける(ことで幸せを感じたい)

などと、“未来の目的”をムキになって追いかけてしまいます。
そのような心境では、プレイしていてもなかなか幸せは感じられないと思います。
それは裏を返せば、

・相手に負けて劣等感を味わうのが怖い
・下手なプレイをして劣等感を味わうのが怖い
・仲間はずれになるのが怖い
・お金を損するのが怖い

という恐怖心でもあるからです。
恐怖心にとりつかれるあまり、場外乱闘したり、体が壊れるほどどれーニングしたり、はては八百長などの犯罪まで犯してしまう人もいます。
ゲームが終わってからも、ウツになるほど落ち込んだり、悔しがったりしている人がいますが、これなども、自分が遊んでいるという自覚に乏しいためです。

なかには、「スポーツは遊びじゃない! 仕事だ!」という人もいると思います。
ですが、人生はそもそも遊びです。
仕事もスポーツも何もかも、すべては自分でつくったバーチャルゲームにすぎません。


この世のすべては、神の意識がつくりだしたバーチャル(仮想的)なものです。
お金もモノも、地位も名誉も、すべては波動でできていて、実態のないものです。
しかし私たちはあたかもそれらが実際にあるかのように思いこんでエキサイトしています。

キッザニアというテーマパークでは、銀行、消防署、ガソリンスタンドなど、いろいろな仕事をバーチャル体験として“遊び”にしていますが、人生はまさにこれと同じです。
私たちは職業体験テーマパークで遊んでいるようなものなのです。
バーチャルゲームなら、つらい仕事も遊びになってしまいます。


カルマの法則、波動の法則、進化の法則など、ありとあらゆる法則も、いわば神のつくった遊び(ゲーム)です。
法則のあつかいがうまくなればなるほど、幸せになれるようプログラムされています。

学校の勉強にしたって、国語は言葉あそびですし、算数は数あそびです。
音楽、美術、体育はもちろん、理科も社会も物理もなにもかも、見方を変えれば遊びになってしまいます。


私は心がネガティブになってきたら、すぐに
「自分はバーチャルゲームなかで遊んでいるんだ」ということを思い出すようにしています。
そうすると、ドラクエをプレイしているときと同じように、行為そのものに幸せを感じられるようになります。
ただ歩いたり、会話したり、買い物したりといった行為そのものを楽しめるようになります。
ひごろユウウツな気分でながめていた町並みにも、「なんてリアルなんだ!」と、ワクワクできるようになります。
なにげない道ばたの草花を見ても、「なんて素晴らしいできばえだ!」と感動できるようになります。
すれちがうサラリーマンも、暴走自転車のおばさんも、ワーキャーうるさい学生も、みな愛すべきキャラクターに見えてきます。

仕事も、家事も、人間関係も、「これはゲームなんだ」ということを思い出せば、つらさが半減してしまいます。
折りにふれ、“自分は今、ゲームで遊んでいるんだ”ということを、思い出してみてください。
行為そのものが目的になり、今に生きられるようになります。



●“ゲームの目的”と“本当の目的”はちがう

人生はロールプレイングゲームでもあります。
ロールは“役”
プレイは“遊ぶ”
訳すと“役を演じて遊ぶゲーム”ということになります。
つまりは“ごっこ遊び”のことです。

子どものころ、ヒーローごっこやお姫様ごっこをしたことのある人もいると思いますが、人生はこれと同じです。
私たちの本当の姿は神ですが、それが男とか女とか子どもとか大人とか、さまざまな役を演じて遊んでいます。
家ではママゴト、学校では学校ごっこ、会社では会社ごっこをして遊んでいます。

ドラクエやファイナルファンタジーなどのゲームも、いわゆるロールプレイングゲーム(RPG)です。
RPGをしているとき、私たちは勇者や魔法使いの役を演じています。
主人公になりきって、歩いたり、話したり、買い物したりしています。

そのとき、私たちは純粋に“今”を楽しんでいると思います。

歩きながら、「もしゲームをクリアできなかったらどうしよう……」などと未来を憂いたり、
話しながら、「もしかしたら嫌われたかもしれない……」などと過去を憂いたりすることはないと思います。

RPGをしている人は、歩く・話す・考える…といった、“今”している行為をそのものに幸せを感じています。
つまり、“今”に生きているのです。

ゲームの中のキャラクター(勇者など)には「魔王をたおしたい」とか「世界を平和にしたい」などといった“未来の目的”があります。
しかし、ゲームの外でキャラクターを操っている私たちには、そのような目的はありません。
私たちは純粋に、ゲームをするという行為(=今)が楽しいからゲームをしています。
「魔王をたおしたい」「世界を平和にしたい」などの目的は、ゲームを楽しむための“手段”でしかありません。


私たちは今、人生という名のRPGを遊んでいる真っ最中です。
RPGのキャラクターである自分には、「幸福感をえたい」という目的があります。
歩く、仕事をする、犯罪を犯すなど、ありとあらゆる行為は、「幸福感をえたい」という未来の目的にむかっているはずです。

しかし、RPGの外で自分をあやつっている自分(神)にそのような目的はありません。
神はただ、遊ぶという行為(=今)が楽しいから遊んでいるのです。
「幸福感をえたい」「人間的に成長したい」「世界を平和にしたい」などの目的は、遊ぶための“手段”でしかありません。
手段と目的をとりちがえると、大変なことになってしまいます。


かといって、“未来の目的”もってはいけないというわけではありません。
むしろ持つべきです。
なぜなら、この世はバーチャルゲームだからです、
ゲームには必ず“目的”が必要です。

サッカーなら“相手に勝つこと”
UFOキャッチャーなら“景品を取ること”
パチンコなら“お金をかせぐとこ”
など、ゲームと目的はワンセットになっています。

何の目的も持たずにサッカーやUFOキャッチャーやパチンコをしても、まったくおもしろくないと思います。
むしろ無意味な行為をしていることにウツになってくると思います。
かつてシベリアの刑罰に、ただ無意味に穴を掘っては埋めることをくりかえさせるというものがありました。
それを体験したドストエフスキーは「もっとも残酷な刑罰は、無意味な労働をさせることだ」というようなことを書いています。
同じ穴を掘るのでも、金を探すなどの目的があれば、まだやりがいがあります。
しかし何の目的もなく穴を掘らされるのは、苦痛以外のなにものでもないと思います。

それと同じで、なんの目的ももたずに人生というゲームをプレイしていても、それは苦痛以外のなにものでもなくなってしまいます。
苦痛すぎて、とちゅうでリセット(自殺)したくなるかもしれません。
そうならないためには、つねに“目的意識”をもつことが必要です。
それは大きな目的でなく、とりあえずの目的で充分です。

とはいえ、たいていの人は、「幸せになりたい」「人間力をアップしたい」など、なにかしら目的をもっていると思います。
しかしそれはあくまで、“人生ゲームのなかの目的”です。
ドラクエの「魔王をたおす」と同じです。
ゲームの中の目的は、ゲームを楽しむための手段でしかありません。
本当の目的ではないのです。

「いつまでたっても病気がなおらない! つらい! 苦しい! もう嫌だ!」
「こんなに努力してるのに、ぜんぜん人間的に成長しない! どうせ私はダメ人間だ!」
「こんなに頑張ってるのに、いつまでたっても幸せになれない! もうどうしていいか分からない!」

などと苦しんでいる人は、手段を目的にしてしまっている人です。
ゲームのなかの目的を現実の目的だとかんちがいして、必死になってしまっています。

この世はバーチャルゲームです。
単なる遊びにすぎません。
それを、おさない子どものようにムキになってしまうと、楽しむためのはずのゲームが楽しめなくなってしまいます。


私たちの本来の目的は、ただこの人生ゲームを楽しむことです。
いいかえると、行為そのものを楽しむことです。
見る、聞く、ふれる…といった行為そのものに幸せを感じることです。
悩む、恐れる、ガッカリする、といった行為そのもを味わい、おもしろがることです。

それ以外にはありません。

人間力を高める
幸せになる
夢を叶える
世界を平和にする
人類を救う

など、いかに崇高な目的でも、すべては人生ゲームを楽しむための手段でしかありません。
そのことをしっかり自覚することが大切です。



●リズムゲーム

かといって、24時間ずっと
「これは単なるゲームなんだ」
「本当の目的は今を楽しむことなんだ」
などと思い続けることは不可能です。
また、その必要もありません。

なぜならこの世はリズムゲームでもあるからです。

この世でリズムのないものはありません。
宇宙、銀河、天体などのマクロなものから、原子、電子、量子などのミクロなものまで、すべてがリズムを刻んでいます。
地球の回るリズムによって12ヶ月や一週間の暦がつくられ、私たちはそのリズムにノって生きています。
電子は原子の周りをまわっていますが、そこには地球が太陽の周りをまわるのと同じようなリズムがあります。

また、“波動”を絵にかくと、上がったり下がったりの波のような絵になりますよね。
リズムとは“周期的な反復”のことですから、この波の絵(波動)はまさにリズムそのものだといえます。
つまり、“波動=リズム”だということです。

物質から魂まで、この世のすべては波動でできています。
だから、すべてのものにはリズムがあるのです。


人体は、呼吸、脈拍、心臓の鼓動など、つねにリズムをきざんでいます。
それと同じで、“意識”もつねにリズムをきざんでいます。

私たちの意識は、

・バーチャル世界にのめりこんで我(神)を忘れる
   ↓
・「これは単なるバーチャルだった!」と我(神)に返る
   ↓
・バーチャル世界にのめりこんで我(神)を忘れる
   ↓
・「これは単なるバーチャルだった!」と我(神)に返る
   

…というリズムを無意識のうちにきざんでいます。
つまり、

・バーチャル世界(人間意識)
   ↓
・真実の世界(神意識)
   ↓
・バーチャル世界(人間意識)
   ↓
・真実の世界(神意識)

…と、バーチャルと真実のあいだでリズムをきざんでいるということです。

また、私達の意識は

・過去(未来)を憂う
   ↓
・今を楽しむ
   ↓
・過去(未来)を憂う
   ↓
・今を楽しむ
      :
と、過去(未来)と今のあいだでもリズムをきざんでいます。
過去や未来は人の頭のなかにしかないバーチャルなものです。
ここにも、バーチャルと真実のあいだでゆれうごくリズムをみることができます。

・この世(バーチャル世界)に産まれる
   ↓
・あの世(真実の世界)にかえる
   ↓
・この世(バーチャル世界)に産まれる
   ↓
・あの世(真実の世界)にかえる

という輪廻転生にも同じリズムをみることができます。

リズムは自然の法則です。
リズムは、神の作った遊びです。
だから、「なかなか今に生きられない!」「また未来のことを心配している!」という悩みは根本的におかしなことだと思います。
この世にリズムがある限り、意識を“今”にとどめることはできません。
意識は波動です。
バーチャル(=過去・未来)と、真実(=今)のあいだを反復して、つねにリズムをきざんでいます。
これこそが神の奏でるメロディーであり、音楽であり、芸術なのです。

だから、
「この世はバーチャルゲームにすぎないのに、どうしてもムキになってしまう」
「この世は実体のないものなのに、どうしてもお金やモノに執着してしまう」
という悩みも悩みとして成り立ちません。
そもそも宇宙はそういうふうにできているからです。

映画をみるとき、「どうせこれは実体のないつくりものなんだ」「ムキになって見てはいけない」なんて四六時中かんがえていたら、映画を楽むことができません。
映画を楽しむためには、夢の世界(バーチャル世界)に入り込むこと、つまり“夢中”になることが必要です。
しかし夢中になりすぎると、ストーリーや登場人物に感情移入しすぎて、かえってつらくなってしまいます。

わたしはかつて、マンガや小説に夢中になりすぎて、精神を病んでしまったことがあります。
そうならないためには、「これは単なるマンガ(小説・映画)なんだ」と、意識をバーチャル世界の“外”に出すことが大切です。

そうしてしばらくすると、またバーチャル世界に戻ってしまうのですが、それがリズムです。
バーチャル世界に落ち込んだと気づいたときに、また真実の世界にジャンプすればよいのです。
つまり、バーチャルと現実のあいだでリズムにノるということです。


神はこの人生という映画をとことん楽しみたいと思っています。
だから「これはバーチャルゲーム世界なんだ」と頭でわかっていても、勝手にハラハラドキドキしてしまいます。
熱くなったり、ムキになったり、どっぷり落ち込んだりして、どうしてもバーチャル世界に夢中になってしまいます。
しかし、心配しなくても、そのうちかならず正気にかえることができます。
この世はリズムでできているからです。


この世界を楽しむためには、リズムをゲームとして楽しむことが大切です。
それは、

・バーチャル世界にのめりこむ
   ↓
・我(神)にかえる
   ↓
・バーチャル世界にのめりこむ
   ↓
・我(神)にかえる
   
という心の動きを楽しむということです。


「自分は今、リズムゲームをしているんだ」ということを自覚すれば、とても楽しい人生をおくることができますよ♪



●今が天国  

一般的に、夢や目標をもつことは良いことだとされています。

「結婚するぞ!」
「お金もちになるぞ!」
「人間関係を良くするぞ!」

などのように前向きな夢や目標をもつことは、たしかに良いことです。
しかし“夢や目標をもつことは良いことだ”という固定観念がジャマをして、かえって今に生きれなくなることがあります。
それは、

「結婚すれば幸せになれる」
「お金があれば幸せになれる」
「人間関係を良くすれば幸せになれる」
「夢が叶えば幸せになれる」

…などのように、幸せに“条件”をつけてしまうときです。
このように「~れば幸せになれる」と考える人は、いざそのような状況になっても幸せにはなれません。
なぜなら今度は、

「子どもができたら幸せになれる」
「もっとたくさんお金があれば幸せになれる」
「もっと人気者になれたら幸せになれる」
「もっと大きな夢がかなえば幸せになれる」

…などと考えはじめるからです。
このような人は永遠に幸せの青い鳥をおいかけるハメになります。


この世はファジーにできています。
いつも不完全な状態です(ユダヤの法則)
完全な状態など永遠にきません。
それなのに人は無意識のうちに“完全”を求めてしまいます。
つまり、
「わたしが不幸なのは不完全だからだ。完全な状態になれば幸せになれる」
と思ってしまうのです。
具体的には、
「わたしは結婚してないから不完全な状態だ。結婚して完全な状態になれば幸せになれる」
「わたしはお金がないから不完全な状態だ。お金持ちになって完全な状態になれば幸せになれる」
「今は人間関係が悪いから不完全な状態だ。何のイザコザもない完全な状態になば幸せになれる」
「今は夢がかなっていないから不完全な状態だ。完全に夢がかなえば幸せになれる」
…などという感じです。

しかし前述のように、完全な状態など永遠にきません。
たとえ結婚しても、大金持ちになったとしても、今度は別の悩みがでてきます。

つまり、人は“今”幸せにならなければ、永遠に幸せにはなれないということです。

状況や環境は関係ありません。
どんな状態であろうと、“今”幸せにならなければ、未来永劫しあわせにはなれないのです。

それは逆にいえば、“私たちは今、この場で幸せになれる” ということです。

完全な状況が永遠にこないということは、言いかえると、“私たちはすでに完全な状況にある” ということになります。
孤独だろうが、貧乏だろうが、病気だろうが、なんの問題もありません。
どんな状況でも、すべてひっくるめて、私たちはいつも完全な状態にあります。
神様は私たちをいつも完璧でベストな状況においてくれています。

「とてもそうは思えない! 私の人生はぜんぜん完璧じゃない! 足りないことだらけだ!」
…という人は、なにをもって「足りない」と言うのでしょうか?
それは“まわりと比べて”だと思います。
宇宙は相対関係でできていますから、自分一人で“足りない”状態にはなれません。
“足りない”人は、まわりと比べて“足りない”と思っているのです。

しかし今の日本で“お金がたりない”と思っている人でも、貧困国に比べたら、ずいぶん“足りてる”人になります。
パソコン、テレビ、洗濯機、扇風機……
どんな人でも、生活保護や施設を利用すれば、徳川家康よりも便利な生活をおくることができます。
それなのに「足りない、足りない、もっと、もっと」と思うのは、あまりに強欲だと思います。

欲にはキリがありません。
欲は永遠に満たされません。
なぜならこの世は不完全にできているからです。
完全に欲が満たされる日は永遠にこないのです。

この世はゲームですから、欲をおいかけることは大切です。
欲とは、いいかえれば目標のことです。
目標がなければゲームを楽しめません。
目標(欲)とゲームはワンセットです。

しかしゲームを楽しむには、それだけでは不十分です。
ただ欲をおいかけるのだと、楽しさよりも苦しさのほうが勝ってしまいます。
そのことはみなさん身を持って経験していると思います。

ゲームを楽しむためには、欲を追うのと同時に、
「自分は今、完全に満たされている」
ということを自覚することが必要です。
この自覚のない人は、
「私は不完全だ。健康が足りない! お金が足りない! 愛が足りない!」
という思いで欲をおいかけます。
しかし欲は永遠に満たされないので、永遠に苦しみ続けます。

いっぽうで、
「自分はすでに完全な状態にある。足りないものは何もない」
という自覚のある人は、“足りない”から欲をおいかけるのではありません。
ただ“ゲームを楽しみたい”から、欲をおいかけるのです。
目的が違います。
欲をおいかけるのは自分の不足をおぎなうためではなく、ただ“ゲームを楽しむため”です。
だから「もっと!もっと!」とムキになって、ガリガリ亡者のように苦しむことがありません。
余裕を持って人生を楽しむことができます。

私たちは神です。
神は完全無欠の存在です。
足りないものはありません。

足りないものがない場所といえば“天国”です。
「お金が足りない!もっとお金があれば幸せになれるのに…」
「愛が足りない!彼がもっと私を愛してくれたら幸せになれるのに…」
「名誉がたりない! もっといい仕事につけたら幸せになれるのに…」
などと言う人のいる天国は想像できないと思います。

私は以前まで、天国はとても遠いところにあるイメージを持っていました。
長い修業の果てにたどりつける場所だと思っていました。
しかし今では毎日のように、「今が天国だ!」と思っています。

それは私が人間的に優れているからでも、徳が満タンになったからでもありません。
ただ、天国は“今ここ”にあるということに気づいただけです。

幸せの青い鳥の話はご存知でしょうか?
かんたんに言うと、“さんざん外を探しても見つからなかった幸せの青い鳥は家の中にいた”という話です。
天国もまさにこれと同じです。
天国はどこか遠くにあるのではなく、今ここにあります。
“灯台下暗し”で、あまりに近すぎてわからないだけです。
ちょっと視点をずらせば、すぐに見つかります。
ちよっと考え方を変えるだけで、たった今からでも天国に住めてしまうのです。
これは本当におもしろい神のトリックだと思います。



●今に生きるには、とにかく感謝!

なかなか「今が天国だ」と思えない人は、とにかく“感謝”を忘れています。

お坊さんは断食したり滝行したり、厳しい修行をしていますよね。
あれは潜在意識のなかで“普通がどのくらいありがたいか”を悟りたいと思っているからです。
ありがたいとは、“有り難い”と書きます。
有り難いとは、“有ることが難しいこと”
……つまり“奇跡”のことです。


今の日本では、だれもが毎日ごはんを食べられますが、これは普通ではありません。
奇跡です。
昔は食料がなかなかな手に入らず、多くの人が餓死していました。
今でも貧困国では大勢の人が餓死しています。
このことを思い出せば、
「私はデブだ。ダイエットしなきゃ…」
「貧乏だからこんなものしか食べられない…」
「病気だから、あれも食べられない、これも食べられない…」
などとウツになりそうになっても、
「いや、普通にごはんを食べられるだけでありがたいんだ」
と、すぐに感謝で今に生きられるようになります。


フォークダンスでおなじみの“マイムマイム”という曲がありますが、これはイスラエルで水を掘り当てた喜びを表したものです。
「マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・マイム・ベッサンソン♪」とは、
「水・水・水・水・水・水(が出て)嬉しい♪」」という意味です。
日本は水がたくさんあるので、水に対してそれほど有り難みを感じませんが、乾燥地域ではとても有り難いものです。
水!水!水!と連呼するところからも、いかに“有り難い”かがわかります。
私たちは普通にガブガブ水を飲み、毎日お風呂に入れていますが、乾燥地域の人たちにとっては普通のことではありません。
マイムマイムを作った人たちから見れば、奇跡だと思います。
だから私は水を使うとき心のなかで「マイムマイム♪」を歌います。
そうすると当時の人々の心にシンクロして、感謝の心で今に生きられるようになります。

現代でも、毎日水くみに何時間も歩かなければならない地域もあります。
そんな地域に住む子どもたちは、1日の大半を水くみに費やさなくてはならないため、まともに勉強する時間がもてません。
そのため、貧困からぬけだせないという悪循環におちいっています。
しかし私たちは当たり前のように義務教育を受けられますし、大人になってからも図書館などを利用すれば無料でいくらでも学ぶことができます。
このような環境は決して普通ではありません。
“勉強できる”ということじたい、とても有り難いことなのです。
朝おきたとき「学校に行きたくない」と思ったら、このことを思い出してください。
そうすれば「学校に行けるだけでも有り難い」と、感謝の波動で今に生きられるようになります。


大人になると1日の大半を仕事についやすことになりますが、そもそも仕事があるということはとても有り難いことです。
途上国では、そもそも職場が圧倒的に少なく、働きたくても働けないのが実情です。
日本でも会社が倒産したりリストラされたり、仕事のない人はたくさんいます。
私は「仕事に行きたくない」「つらい」「こんな仕事…」と思いそうになったら、これらのことをすぐ思い出します。
すると「仕事があるだけ有り難い!」と感謝の波動で今に生きられるようになります。


誰でも病気になってしまったときは、痛みや不安などから今に生きれなくなることがあると思います。
そのようなとき、つい自分の心配ばかりしてしまい、感謝の気持ちを忘れがちです。
しかしたとえ病気になっても、感謝できることはたくさんあります。
例えば、日本では法外な最先端医療さえのぞまなければ、誰でも普通に医療行為が受けられます。
しかもお医者さんはみんな正式な資格をもった人ばかりです。
私たちはこのことを当たり前のように思いがちですが、これは当たり前のことではありません。
世界ではまともに治療をうけられない人のほうが多いくらいです。
アメリカですら貧困層はキチンとした医療行為を受けられていません。
日本も昔は寿命が今の半分程度しかなく、多くは若くして病死していました。
私は体調不良で不安になったとき、これらのことを思い出して、
「医者にみてもらえるだけ有り難い!」
「近くに病院があるだけ有り難い!」
と思っています。
また守護霊様はなるべく私たちがつらい思いをしないよう、病状が軽くなるよう、つねにに働いてくれています(人は運命共同体だからです)
そのことに対しても「守護霊様、有り難うございます!」と感謝しています。

このように、感謝で今に生きていると、痛みやつらさがだんだん減ってきます。
なぜなら、痛みやつらさの大半は、不安・怒りなどのネガティブな波動が原因だからです。
ガンの腫瘍や骨の変形など、物理的なことは直接の原因ではありません。
それらの異常も結局のところ、自分のネガティブな波動が原因だからです。
同じような腫瘍をもっていても、かたや元気に動きまわり、かたや激痛で苦しんでいる人がいます。
両者の違いは、その人の波動の違いが大きいといえます。
もちろんポジティブな波動の人でも、一時的に苦しむことはあります。
しかしそのような人の苦しみがえんえん長く続くことはありえません。

病気になったとき、つい薬に頼ろうとしますが、それはあまり意味がありません。
「神様はなぜ自分を病気にしたのだろう」と自問自答してみてください、
“薬や手術で治すため”
という答えが浮かんでくる人はまずいなはずです。
それに対するの答えはやはり
“もっと感謝ができるような人間力をやしなうため”
“もっと今に生きられるように人間力をアップするため”といったものだと思います。
なのに、それらの声に耳をかさず、医者や薬にたよろうとするのは、一時しのぎ以外のなにものでもありません。
根本原因(=自分の心)が治っていないのですから、しばらくすればまた再発してしまいます。
※もちろん、医学を全否定するつもりはありません。
 どうしても薬が必要なばあいもあります。
 ファジーに考えてくださいね。


病気はいわば、人間力をつけるためのトレーニングゲームです。
病トレゲームの目的は、人間力をつけて今に生きられるようになることです。
だからあるていど今に生きることができるようになれば、たいがいの病気は勝手に治ってしまいます。
目的が達成されたからです。
このことを悟ってから、私は薬や病院に頼ることがほとんどなくなりました。
「どうしよう、何の病気だろう…」
「治らなかったらどうしよう…」
などと不安になることはまったくありません。
どんな病気になろうとも、今に生きてさえいれば大丈夫だからです。
今に生きれなくてもかまいません。
今に生きようとするだけでOKです。
神様は無理なことはいいません。
自分にできる範囲で今に生きていれば、すべては良い方向へむかっていきます。

もし手術をする段階になっても、今に生きていれば恐るるにたりません。
手術をするとなると、不安や恐怖でなかなか今に生きられないと思います。
しかしよく考えてみれば、手術をされるがわよりも、手術をするがわのほうが大変な思いをしているはずです。
絶対にミスはゆるされませんし、ミスなどしようものなら取り返しの付かないことになってしまいます。
そもそも注射をしたりメスを入れたり、人の体を傷つけるのは精神的に大変なことだと思います。
「こっちは高い金はらって手術させてやってるんだから、当然のことだ」
「医者は切ったり縫ったりするのが好きな人がなってるんだ」
などと思う人の波動はネガティブです。
まったくもって今に生きていません。
今に生きるとは、ポジティブな波動を出すということです。
大変な思いをしているお医者さんたちの気持ちを思いやって、感謝するということです。
具体的に言えば、
「有難うございます、有難うございます……」
「私のために誠意を持って手術してくださって感謝します」
と、感謝の言葉で“今”を埋めるということです。
そのようにしていると、自分の出したポジティブな波動で不安や痛みが中和されます。
だからつらい手術もわりと楽に乗り越えられるようになります。

また霊視のできる人には、守護霊様が患部に手を当てて痛みをやわらげようとしているようすが見えるようです。
なので、その光景を想像して「守護霊様、有り難うございます」を連発していれば、たとえ手術中であろうとも感謝の心で今に生きることができます。


歩いているとき、座っているとき、ボーっとしているとき、私たちはいつでもどこでも今に生きることができます。
たとえば、私たちはつねに何か“モノ”を使っていますよね。
服というモノは、ふだんほとんど無意識に身につけていますが、もしとつぜん服が消えてしまったらとても困ると思います。
靴もほとんど無意識にはいていますが、靴がとつぜん消えてしまったら、ヤケドしたり凍傷になったりしてしまいます。
歯ブラシ一本にしても、もしなくなってしまったら、虫歯だらけでとても苦しむことになってしまいます。
紙、ペン、ハサミ、タオル、トイレ、家……など、どれもこれも、普段はたいして有り難いとは思いませんが、いざなくなれば困るものばかりです。

モノがあるのは普通のことではありません。
私たちの身の回りにあるものは、もともと宇宙のチリでした。
それがビッグバン・核融合などをへて、奇跡的な確率で、そのモノになっています。
つまりすべてのモノは奇跡の産物であり、文字どおり“有り難い”ものなのです。

なかには「俺は無欲だ! モノはいらない!」という人もいるかもしれません。
しかしそれは“人間が作ったモノ”がいらないのであって、“神の作ったモノ”はどうしたって必要です。
神の作ったモノとは、火、水、土、光、空気、地球、太陽など、この世のすべてです。
その人自身も神の作ったモノです。

私たちは今こうして普通にモニターを見て、普通に字を読んでいますが、これはひとえに“目”というモノがあるおかげです。
目があるということは当たり前すぎて、その有り難さを忘れがちです。
しかしたった今、目が見えなくなってしまったとしたら、その有り難さを痛感することになってしまいます。
歩くことも、食べることもままならず、今の仕事もできなくなってしまうかもしれません。
テレビもパソコンも見れず、本もブログも読めず、人間力を高める勉強をするのにも一苦労です。

名著“道は開ける”の中に、盲目から回復した女性の話があります。
彼女は目が見えたとたん、ただ“見える”ということにたいして、ただならぬ喜びを感じています。
私たちにとって目が見えることは“普通”のことですが、彼女にとっては“歓喜”です。
私たちには“普通”の景色も、彼女にとっては“圧倒的に美しい芸術”です。
彼女は食器を洗いながら、ちいさな泡のひとつにすら美しさを感じ、感動しています。

そしてこれこそまさに、“今に生きる”心のありかただと思います。
お坊さんが苦行をするのは、つねにこのような心境でいられるようになることを潜在的に望んでいるからだと思います。

私はネガティブになりそうになったとき、この盲目の女性にシンクロしています。
そうすると、なんのヘンテツもない景色が、一変して鮮やかな景色なります。
ただ目が見えるということに対してワクワクし、有り難い気持ちでいっぱいになります。

今に生きるとは、盲目から回復した直後のような、喜びにあふれた心を持続するということです。
つねにこのような歓喜の気持ちを忘れないということです。
今世で盲目になったことがなくても、私たちは過去世で必ずそのような体験をしています(魂は進化する
鉱物や植物は人間のようにものは見えていませんし、動物にも盲目状態で生きているものはたくさんいます。
つまり人間であれば、だれでもこの気持ちを再現することができるのです。

いつもこのような歓喜の気持ちでいるためには、“今がどれだけ有り難いか”を思い出すのがコツです。
一寸先は闇といいますが、私たちの“今”はとても危ういバランスのうえに成り立っています。
目玉ひとつ、携帯ひとつ、サイフひとつなくすだけで、たちまち平穏な日常がくずれてしまいます。
家族の健康、恋人の態度、地盤の状態、どれかひとつでも乱れれば、たちまちにして地獄のような世界になってしまいます。
つまり、今、こうして普通にブログが読めるのは、奇跡的にバランスのとれた、とても“有り難い”状態なのです。

私は、歩いているときウツな気分になったら、歩けなくなってしまったときことを想像します。
そうすると、「歩けることはなんてすばらしいんだ!」と、歩けることの有り難さを思い出し、歓喜することができます。
体調不良でウツな気分になったら、もっと酷い病状になってしまったときのことを想像します。
そうすると、今ていどの症状ですんでいることの奇跡を思い出し、感謝することができます。
上司にムカついたら、上司がヒトラーのような暴君になってしまったときのことを想像します。
そうすると、上司がそこまで暴君でないことの有り難さを思い出し、感謝することができます。
同僚にムカついたら、同僚が悪魔のようなイジメっ子になってしまったときのことを想像します。
そうすると、同僚がそこまで悪魔的な人間ではないことの有り難さを思い出し、感謝することができます。


もし誰かに
「100万円あげるから、あなたの耳をくれ」
「一千万円あげるから、あなたの腕をくれ」
「一億円あげるから、あなたの胃をくれ」
と言われたら、あなたはどうするでしょうか?
じゃああげる、という人はマレだと思います。
ほとんどの人が一億円つまれてもイヤだと思うのではないでしょうか?
つまり私たちは、一億円にも代えがたいモノを、今現在もっているということなのです。
今に生きられない人は、このことを忘れています。
「自分は足りないものだらけだ。自分には何もない」
という人も、
“もしも今、目がなくなったら”
“もしも今、舌がなくなったら”
と想像力をはたらかせれば、いかに自分がすごい宝をもっているかが実感できるはずです。


365日24時間、私たちはつねに有り難いモノに囲まれた、とても恵まれた存在です。
それなのに、不満や不安や心配ばかり感じていると、
「こんなに恵まれているのに、まだ足りないのか」
「それなら自分がどれだけ恵まれているか、思い知らせることにしよう」
と、自分の潜在意識(=神)が事故や災害をおこしかねません。
事故や災害でモノを失えば、今の自分がどれだけ恵まれていたかを再認識できるからです。
しかしできればそんな方法で再認識はしたくありません。
そうならないためには、“今”の自分がどれだけ有り難い状態におかれているのかを思い出し、感謝することが大切なのです。



●今の自分で完璧だ!

なかなか今に生きれない人は、

「今の自分は完璧ではない」
「今の自分は人として未完成だ」

という思いがどこかにあると思います。
だから、

「今の自分はまだ人間力がたりない。もっと人間力をつけなければダメだ!」
「今の自分はまだ徳がたりない。もっと徳をつめまなければダメだ!」

と自分を責めて、自己嫌悪におちいりがちです。
このような人はいつまでたっても自己嫌悪から逃れることはできれません。
なぜなら人が“完璧”になれる日など永遠にやってこないからです。
だから
「まだ人間力がたりない…徳がたりない…私はダメ人間だ…」
と、永遠に自己嫌悪することになってしまいます。

「今の自分はまだ完全に健康じゃない。もっと健康にならなければダメだ!」
「今の自分はまだ前世のカルマが残っている。もっとカルマをへらさないとダメだ!」

という人も、永遠にダメだダメだと自分を責めつづけることになります。

完全に健康になれる日など永遠にやってきません。
どんなに健康な人でも、肉体的、精神的に数%はおかしなところがあります。

完全にカルマがなくせる日も永遠にやってきません。
なぜなら私たちは今も、毎日のようにカルマを作り続けているからです。

徳が完璧になる日も永遠にやってきません。
なぜなら人は神にむかって永遠に成長しつづける存在だからです。


永遠に完璧にはなれないということは、逆に言えば“すでに完璧な状態にある”ということです。
永遠に完成されないということは、見かたをかえれば、すでにその状態が完成形だということです。

ウォルト・ディズニーは「ディズニーランドは永遠に完成しない」ということばを残しています。
これはディズニーランドは永遠に成長しつづけるという意味です。
かといって今のディズニーランドがダメな未完成品なのかといえば、そんなことはないと思います。
ディズニーランドは今の時点で、じゅうぶん完成していますよね。

人間もこれと同じです。
私たちは未完成でありながら、今の時点でじゅうぶん完成しています。

神はミスをしません。
神はつねに完璧です。
完璧な神が、ダメな失敗作をつくるはずがありません。
神の最高傑作である私たちは、すでに完璧な作品です。
“未完成品”という一個の芸術品だということです。



●霊主体従

「なかなか今に生きられない」
「今やるべきことに集中できない」
という人は、“物理的”なことだけが今に生きる道だとカン違いしていることがあります。
物理的なこととは、家事、勉強、仕事など、実際に何か行動することです。
しかし今に生きるとは、そのようなことばかりではりません。
むしろ物理的なことよりも、“思考的”に今に生きることのほうが優先です。
思考的に今に生きるとは、感謝したり、人の幸せを願ったり、ポジティブな言葉を思ったり、頭のなかで今に生きるということです。

いくら勉強や仕事をがんばっても、思いがネガティブでは今に生きているとはいえません。
今に生きるためには、まずはじめに“思いで今に生きる”ことが必要です。
物理的な行動はその後です。
まず思いを整えたあと、はじめて現実でも今に生きられるようになります。

人間はおよそ2つの要素にわけることができます。
ひとつめは、目に見えない波動的な要素(思い・魂・神など)
ふたつめは、目に見える物質的な要素(モノ・からだ・行動など)です。

順番としては、まず波動(神の思い)があって、そのあとに物質(モノ)がうまれます。
何かしようという“思い”が脳におこって、そのあとに体がうごき、行動になります。
逆はありません。

つまり宇宙には、
1、波動
2、物質(行動)
という“順序”があるのです。
この順序を“霊主体従(れいしゅたいじゅう)”と言ったりします。

今に生きるためには、この順序を間違えないことが大切です。



●愛が一番

今に生きられないとき、その人は心が“エゴ”な状態になっています。

つまり、
「心配だ」
「不安だ」
「ムカつく」
「恥ずかしい」
「変に思われたくない」
「わたしはダメ人間だ」
というように、自分のことばかり考えている状態になっているのです。
エゴは、真実とは真逆の方向です。
だから心が苦しくなります。

このような苦しみから抜け出すためには、逆位の波動で押し返すことが大切です。
エゴの反対は“愛”です。
つまり愛の波動(=ことば)で押し返せばよいということです。

たとえば恋人が死んでしばらくたっても今に生きられないというとき、その人はエゴな心になっています。

「つらい」
「悲しい」
「さびしい」
など、自分のことにばかり意識が集中している状態です。
当人はその気持ちを愛だとカン違いしていますが、それは本当の愛ではありません。
ニセモノの愛(エゴ)です。

しかしそこで、
「死んだ彼がこんな私を見てどう思うだろうか。
 きっと心配するに違いない。
 わたしのネガティブな思いにひっぱられて、天国にいけなくなるかもしれない。
 自分のことばかり考えるんじゃなくて、彼の幸せも考えよう。
 彼を安心させるために、ポジティブな思いを発信しよう!」
と、“本当の愛”に目覚めたらどうでしょうか?
とたんに苦しみから解放され、今に生きられるようになると思います。
愛の波動が、エゴな波動を吹きとばすからです。

私はネガティブな気分になったとき、
「ここで私が苦しむと、他の人たちにも同じ思いを味あわせることになる(人は運命共同体公害人間になるな
 みんなに苦しい思いはさせないぞ! 私はみんなへの愛に生きるんだ!」
と思っています。
そうすると、かんたんに心の苦しみから抜けだせます。
愛の波動は強力です。

愛がないまま「ありがとう」を連発したり、
「大丈夫、大丈夫…」
「勇気、勇気…」
などと思っても効果はうすいです。
それらは自分のために向けられた言葉だからです。

まずはじめに「愛」を思うことが大事です。
そうすると、そこから、感謝・勇気・思いやりなどの思いがうまれます。

愛からうまれた感謝は強いです。
愛からうまれた勇気は強いです。
愛からうまれた思いやりは強いです。

逆に、愛なき感謝は弱いです。
愛なき勇気は弱いです。
愛なき思いやりは弱いです。

苦しみを癒すには、“愛”という薬しかありません。
愛を切らせたとき、苦しみがうまれます。
苦しみは、愛が不足しているサインです。

愛は他から与えてもらうものではありません。
自分で創りだすものです。

お手本は神様です。
神様は一円ももらわず、光、空気、食物などを私たちに与えてくれています。
「わたしは愛されてないから、愛なんて湧いてこない」
などとケチくさいことは言いません。
神は愛そのものです。
だから神の愛は無限なのです。

そして私たちは神様です。
だから私たちの愛も無限のはずです。

愛はこの世でもっとも崇高な波動です。
愛のパワーにまさるものはありません。



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納得の法則(キャラクターの法則/演劇の法則)

2013.07.25.20:14

○納得すると幸せを感じる

人は“納得“できないと苦しくなります。
例えば、
「何で私だけこんなに不幸なの!?」
「私は悪くないのになんで怒られなきゃならないの!?」
「あいつは悪人なのに、なんで幸せそうにしているの?」
…などの苦しみには、「納得できない!」という思いがあるはずです。

しかしこのような苦しみは、カルマの法則など宇宙のしくみを理解するにしたがって、だんだんなくなっていきます。
なぜなら“納得”できるようになるからです。

「なんで私だけこんなに不幸なの?納得できない!」
という人も、いろいろと勉強していくうちに、
「だから私は不幸だったのか…」
と、納得できるようになります。
そして納得できたとたん、フッと心が楽になります。

この世は謎解きゲームです。
“納得した”とは“謎が解けた”ということです。
より一歩、真実(=神)に近づいたということです。
私たちは神に近づくほど幸せになるようプログラムされています。
だから心が楽になるのです。

この世は自分でつくったバーチャルゲームです。
だから必ず自分の納得のいくシステムになっています。
自分で納得できない理不尽なゲームをつくって、わざわざ苦しみたい人なんていませんよね。
自分で納得できない変なナゾナゾをつくって、イライラしたい人もいないと思います。

ただ、簡単すぎるナゾナゾはつまりません。
だから私たちは、ちょっと難しいナゾをつくって、悩むことにエキサイトしているのです。



○真実はわからない

科学や論理の世界では、“観測”によって真実をみちびきだします。
なんども観測して同じ結果がえられれば、いちおうそれが真実ということになります。
観測から真実をみちびく方法を帰納法といい、科学の基礎になっています。
しかし厳密に言うと、それは真実ではありません。

たとえば、レモン汁を青いリトマス紙につけると赤色になります。
今まで100億回?くらい観測したと思いますが、100%の確率で赤色になるようです。
だからレモン汁は酸性である、ということが真実のように思われています。
しかしそれは限りなく酸性の可能性が高いというだけで、100%酸性というわけではありません。
100億1回目も赤色になるという保証はどこにもないのです。
たとえば、今まで実験に使われてきたリトマス紙が、たまたまぜんぶ不良品だった可能性があります。
もともとレモン汁はアルカリ性なのに、未知の物質Xが一時的にを酸性にしている可能性もあります。
そもそも私たちは宇宙人に集団催眠をかけられていて、青が赤に見えるように洗脳されている可能性もあります。
もちろん、そのような可能性は限りなくゼロに近いのですが、ゼロではありません。
つまり、科学や論理で「100%真実だ!」と証明することは不可能なのです。

むかしは、
「科学が発達すれば、人類はいつか真実にたどりつける」
「論理をつみかさねれば、いつかは真実にたどりつける」
と考えられていました。
しかし現代では、不確定性定理、カオス理論などから
「科学や論理では真実にたどりつけない」
という結論にいたっています。

天気予報では、
「だいたい○時から○時のあいだに、だいたい○○の地域で、だいたい○%の確率で、雨や雪になるでしょう」
というあいまいな予報をします。
それは100%カンペキな予測ができないからです。

以前バタフライ効果について書かせていただきました。
バタフライ効果とは、蝶のちいさなはばたきが、のちのち大嵐につながるという現象のことです。
つまり、ほんのわずかの差が、巨大な差に発展してしまうということです。
だから、予報コンピューターに入力する情報が、0.00001違っているだけで、その後の予測が大きく異なってしまいます。

カンペキな予測をするためには、現状をカンペキに知ることが必要です。
全宇宙の状態を、0.0000001の誤差もなく、予測コンピューターに入力する必要があります。
わずかでも値がズレていたら、結果が大きく変わってしまうからです。
しかしそのようなことは、人間には不可能ですよね。
このように、わずかの差が大きな差に繋がってしまうような複雑は計算をあつかう学問を“カオス理論”といいます。
カオス理論は「人はカンペキに真実を知ることは不可能である」という前提のもとになりたっています。

「いや、ただひとつ100%の真実がある。それは数学だ!」
と言いたところですが、“不完全性定理”というものによって、数学も100%真実ではないことが明らかになっています。
これは、数学ほど安心できるものはない(Ctrl+F検索)と矛盾しているようですが、そもそも宇宙はファジーな構造になっています。
ファジーの法則のなかで、数学は限りなく真実に近い概念だといえます。



○納得センサー

神(真実)の一部である人間が、すべての真実を知ることは不可能です。
しかし限りなく真実に近づいていくことはできます。
そのとき、より真実に近い方向をしめすセンサーが“納得”という感覚です。

カルマの法則がある世界とない世界、どちらが真実か証明することはできません。
にもかかわらずブログ読者のかたの多くは、カルマのある世界を真実だと感じていらっしゃるようです。
なぜでしょうか?
それは、カルマのある世界のほうが“納得”できるからだと思います。
「この世にはカルマの法則などない。
 あなたが不幸なのはたまたま運が悪いだけだ。
 この世はたまたまや偶然がある。
 だからあなたがどんなに努力しても不幸から抜け出せるとはかぎらない」
という説明よりも、
「この世はカルマの法則(原因と結果の法則)があって、たまたま不幸になることはない。
 不幸になるようなカルマ(原因)を作らなければ不幸になることはない。
 つまり人は自分の行動しだいで幸せにも不幸にもなれる。
 自分で自分の人生を切り開くことができる」
 という説明のほうが“納得”できるからだと思います。
それより深い理由はないはずです。


人はそれぞれ自分なりの真実をもっています。
それは、
「キリスト教は真実だ」
「イスラム教は真実だ」
「A健康法は体にいい」
「B健康法のほうが体にいい」
などさまざまです。
しかしそれらは自分のオリジナルの考えではありません。
いろんな意見のなかから“納得”のいくものをチョイスして、自分なりの真実にしているはずです。

どんな一流の学者でも、さいごに頼るのは“納得”という感覚です。
どんなに論理思考をつみかさねても、さいごは“納得”というアナログな感覚で判断しています。
たとえばガリレオは、なぜ天動説ではなく地動説が真実だと思ったのでしょうか?
それは観測によってで“地球が太陽のまわりをまわっている”という証拠がたくさん出たからです。
では、なぜ証拠がたくさん出たら真実だと思ったのでしょうか?
それは、そちらの方が納得できるからです。
では、なぜ納得のできるほうが真実だと思ったのでしょうか?
もう、そこには理由がありません。
ただ納得できるから真実だと思ったのであり、それより深い理由はないはずです。

私たちはなぜ“1+1=2”が真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それより深い理由はありません。

私たちはなぜ太陽が東からのぼることを真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それより深い理由はありません。

「納得もなにも、現実にそうじゃないか!」
という人は、なぜ“現実にそう”なら真実だと感じるのでしょうか?
それは納得できるからです。
それ以上、理由を追求することはできません。

つまり“納得”は、なにが真実かを示す、もっとも根源的な感覚だということです。




○納得できることは変わっていく

「むかしは納得していたが、今は納得できなくなった」
「以前は納得していたが、今は間違いだと感じる」
ということもあると思います。
しかしこの世に間違いはありません。
ただ、それにふくまれる真実の%が違うだけです。
たとえば古代、リーダーがいない状態では大きな工事がおこなえませんので、自然に「リーダーをつくろう」という考えがうかびます。
みんなその考えに“納得”して、一人のリーダーが集団をひきいる独裁制がはじまります。
はじめのうちは優秀なリーダーが選ばれてうまくいくのですが、そのうちアホなリーダーが出てきてうまくいかなくなります。
そこで、「権力を数人に分けよう(貴族制)」というアイデアが出て、みんながそれに“納得”します。
しかしそのうち、派閥争いなどでうまくいかなくなります。
そこで「みんなで権力を分けよう(民主制)」というアイデアが出て、みんながそれに“納得”します。
しかし民主制も、衆愚政治におちいってうまくいかなくなります。
そしてまた「こうしたらいいんないか」というアイデアが生まれ、みんながそれに納得し……
というように、ものごとはより良い方向(=真実)にむかって進化していくものです。
独裁制も貴族制も間違いではありません。
ただ民主制よりも、やや真実から遠いだけです。
すべてはより良い方向にむかうための、必要なステップなのです。



○納得の法則しか存在しない  

この世は自分の意識がつくりだしたものです。だから、
“自分の納得のいくことしか起こらない”
これが納得の法則です。
納得のいかない世界をつくってわざわざ苦しみたい人はいないはずです。
この世はすべて自分の納得のいくようになっています。

万有引力の法則、質量保存の法則など、宇宙にはさまざまな法則がありますが、すべての法則に共通していることがあります。
それは“納得”できるということです。
納得できないものは法則になりえません。
納得のできるもののみに“法則”と名がつけられます。
つまり、法則といえばすべて“納得の法則”だということができます。
カルマの法則も正負の法則も、すべて納得の法則です。

“法則”とついていなくても、数学・芸術・ヒト・石・テレビ・喜ぶ・考える・概念……などなど、名前のあるものはすべて法則です。
数学とは○○である。
テレビとは○○である。
概念とは○○である。
などと辞書に書いてありますが、すなわちそれが、その名前のもつ法則です。
だからこれらもすべて納得の法則です。
ギブギブ、今に生きる、一分以上考えないなど、このブロブのタイトルもいわば納得の法則です。

つまりこの世はすべて“納得の法則”でできているということです。

この世には納得の法則がひとつあるだけで、他の法則は存在しません。
たとえば“悪いことをした人には悪いことがおこる(カルマの法則)”などというものは存在しません。
神が「悪いことをした人に悪いことがおこれば納得がいく」と思うからそういう現象がおきているだけです。
“悪いことをした人には必ず悪いことがおこる”という絶対の法則があるわけではありません。
順番でいえば、「悪いことをした人に悪いことがおこれば納得がいく」という神の思いが先にあり、その後に“悪いことをした人には悪いことがおこる”という現象が生まれるのです。
だからもし神(自分)が、「悪いことをした人に悪いことがおこらなくても納得がいく」と心の底から思えたら、そのとおりになります。
そのとき、カルマの法則はなくなります。

同じように“不幸のあとには幸せがくる(正負の法則)”などというものは存在しません。
神が「不幸があっても、そのあとにに幸せがくれば納得できる」と思うからそうなっているだけです。
だからもし神(自分)が、「幸せのあとに幸せがきても納得がいく」と心の底から思えたら、そのとおりになります。
そのときその人は、正負の法則を超越したといえます。



○納得の法則を最優先にする

この世のすべては、神の思いによってつくられています。
ヒトも石も概念もカルマの法則も、神の思いによってつくられたものです。
つまり、はじめに神の思いがあって、その次に法則がうまれるのです。
この順番は大事です。
これを逆にするとエライことになります。
逆にするとは、法則を一番にして、神(自分)の思いを二番にするということです。
それは真実から外れた行為です。
そんなことをすると心が苦しくなり、人生に苦しむことになります。

しかし以前の私はよくそのようなことをやっていました。
たとえば私は何か悪いことをしてしまったとき、
「また悪いカルマをつくってしまった」
「なにか悪いことおこるにちがいない」
と恐れ、苦しむことがありました。
これは、法則を第一に考えて、神(自分)の思いを二の次にしていたからです。

“悪いことをする”ことは、いわゆる“失敗”ですよね。
人であるかぎり誰でも失敗します。
どんな聖人でも、完璧な人はいません。
それは神がそのような世界をつくっているからです(ファジーの法則
それなのに、失敗するたびにいちいち罰(悪いカルマ)をあたえられるようなシステムに、はたして納得できるでしょうか?
私は納得できません。
「こんな理不尽なシステムを神(自分)がつくるはずがない!」
と思います。

しかしこの世に偶然はありません。
すべて厳密な法則によって成り立っています。
だからこそ安心できるのです。
ここで、「今回の失敗だけなかったことに…」などとすれば、安心の世界が根底からくつがえってしまいます。
しかし、いっぽうで私の中には「カルマの法則には納得できない」という思いもあります。
この矛盾をどうすればよいのでしょうか?

ここで納得の法則の出番です。

この世は自分の思いがつくりだしたものだから“自分の納得のいくことしか起こらない”
これが納得の法則です。
ならば、自分が納得できるような状況をつくりだせばよいのです。

たとえば、あなたが何かに失敗して、人に迷惑をかけてしまったとします。
しかしあなたは失敗の原因をたいして分析もせず、ただ落ちこむだけだったとします。
すると当然、あなたは次もまた同じような失敗をして、人に迷惑をかけてしまいます。
あまつさえ“落ち込む”という行為で波動汚染までするしまつです。
はたして神はこのような状況に納得できるでしょうか?
おそらくできないと思います。
あなたのことを何とかしようと、なにかしら働きかけるはずです。
その働きかけが、いわゆる“カルマの法則”なのです。
カルマの法則で、自分のかけた迷惑がどんどん返ってくれば、あなたもいつしか
「こんなつらい人生もうイヤだ! どうすればこのつらさから抜け出せるんだろう?」
と、いろいろ考えるようになります。

またあるとき、あなたは人に対して悪意ある嫌がらせをしてしまったとします。
しかしあなたはその後、なぜ自分が悪意をもつにいたったのかを論理的に分析し、
「自分のこういう考えかたがマズかったんだ」と原因をつきとめ、
「次におなじシチュエーションになったらこうしよう」「人間力を鍛えるために本を読もう」など対策を立て、
「○○さんには悪いことをしたなあ」と謝罪の心を持ち、
「○○さんは神の化身だ。私の人間力を高めてくださってありがとうございます」と感謝し、
「○○さんに迷惑をかけた3倍くらい、なにか良いことをしよう」と失敗を活かして徳をつみ(三倍返しCtrl+F検索)
「人間は完全に平等だ。どうせ人はみな同じ失敗をするんだから落ち込む必要はない」と論理的思考力を鍛え、
「落ちこむヒマがあったら、一分一秒、今に生きよう」と思い、
「わたしは愛に生きます。みんなの幸せのために生きていきます!」と、心で唱え続けたとします。
はたして神はあなたに“働きかけ”をする必要を感じるでしょうか?
悪いカルマを負わせる必要を感じるでしょうか?
おそらく感じないと思います。
神(=あなた)はあなたの行為に“納得”して、これ以上あなたに何かする必要を感じないはずです。
つまりこのとき、あなたは「悪いことをした人に悪いことがおこらなくても納得がいく」と思えたわけです。
だからあなたに悪いカルマが返ることはありません。
このときカルマの法則を超越したといえます。

私が不幸だったころ、「私は人間的にまだまだだ」と、自分に納得していませんでした。
しかし今は「今の自分で完璧だ(Ctrl+F検索)」と、自分に納得しています。
だから自分に試練をあたえる必要がないので、いわゆる神の試練(=つらいこと)は起きません。


また以前のわたしは、なにか良いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。いつまでも良いことはつづかない。次は悪いことがくる」
と恐れていました。
これも法則を第一に考えて、神の思いを二の次にしていたからです。

正負の法則とは、“バランスの法則 + リズムの法則”のことです。
太陽が上れば沈むように、波動が上下のリスムをえがくように、人生にも上下のリズムがあるというのが正負の法則です。
磁石にプラス極とマイナス極があるように、甘いモノを食べれば虫歯になるように、贅沢をすればビンボーになるように、人生にも正負のバランスがあるというのが正負の法則です。

たしかに悪いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。悪いことのあとには良いことがくるんだ」
と思うことで心が救われます。
しかし良いことがあったとき、
「この世は正負の法則だ。つぎは絶対に悪いことがくる…」
と思うと心が苦しくなります。

“良いことのあとには、必ず悪いことがおきて苦しまなければならない”

はたしてみなさんはこのような世界に納得できるでしょうか?
私はできません。
「そんなイヤな世界を神(自分)がつくるはずがない」
と思います。
しかしこの世には、たしかにバランスの法則やリズムの法則があります。
「悪いことのあとには良いことがくる」と思うことで救われるのも事実です。
ここで「良いことのあとには、良いことがくる」などとすれば、そのような世界を根底から否定してしまうことになります。
このジレンマをどうすれば解決できるのでしょうか?
やはりここでも納得の法則です。

たとえば、あなたが仕事で成功し、幸せの絶頂にいたとします。
そのときあなたは優越感で、得意になっていたとします。
浮かれポンチになり、まわりにイヤな印象をあたえていたとします。
はたして神はそんな状況に納得できるでしょうか?
おそらくできないと思います。
あなたのことを何とかしようと、なにかしら働きかけるはずです。
その働きかけが、いわゆる“正負の法則”です。
次の仕事で失敗してイタいめをみれば、あなたは心を改めることができます。

またあるとき、あなたは仕事で成功し、幸せの絶頂にいたとします。
しかしあなたは優越感を感じても、「これは反射だから当たり前の感情だ」と論理的に分析し、
それを活かして「謙虚な心、美しい心…」と徳をつみ、
「おもわず浮かれポンチになってしまった。みんなにイヤな思いをさせてしまって申しわけなかったな」と謝罪の心を持ち、
「次に同じシチュエーションになったときは、こういう態度をとろう」と対策を立て、
「イヤな思いをさせたぶん、3倍くらい好感をあたえるぞ!」と三倍返しで徳をつみ、
「この成功は自分の力だけではなく、みんな(=神様)のおかげです。ありがとうございます」と感謝し、
「人の能力は完全に平等なんだから、優越感を感じるのは論理的におかしなことだ」と思考力を鍛え、
「あ~、人生ゲームはおもしろいな~」と、今を楽しみ
「わたしは愛に生きます。みんなの幸せのために生きていきます!」と、心で唱え続けたとします。
はたして神はあなたに、正負の法則でイタイめをみさせる必要を感じるでしょうか?
おそらく感じないと思います。
それは神(=あなた)があなたの行為に納得したからです。
このときあなたは「幸せのあとに不幸がこなくても納得がいく」と思えたわけです。
だからあなたに正負の法則がはたらくことはありません。



○人生楽しかありゃしない♪

納得の法則に気づいていなかったころの私の人生は“人生楽ありゃ苦もあるさ”でした。
良いことがあれば悪いことがあり、良いことがあれば悪いことがあり……のくりかえしでした。
しかし納得の法則に気づいてからは、“人生楽しかありゃしない♪”の状態になっています。
にわかに自分でも信じがたい状況です。
まさに“今が天国”という感じです。

正直なところ、このような人生がありえるとは思っていませんでした。
人生とは、山あり谷あり、いいこともあれば悪いこともあるものだと思っていました。
正負の法則が、宇宙の真理だと思っていました。
永遠に幸せがつづくなんてムシのいいことはありえないと思っていました。

しかしそれは神のしくんだトラップだったようです。
人類のほとんどが、長年このトラップにひっかかり続けてきたのではないでしょうか?

しかし近年のアセンション(次元上昇)にともない、多くの魂がこのトラップに気づきはじめたようです。
ひとむかし前まで、
“苦労は買ってでもしろ”
“きびしい修行をしなければ救われない”
“金持ちが天国に入るのは針の穴を通るより難しい”
という風潮だったのが、最近は、
“もっと楽しくワクワク生きたほうが良い”
という風潮になってきているのは、みなさんも感じていらっしゃるのではないでしょうか?

むかしは、法律、思想、身分制度など、あらゆるものが“きびしい”傾向にありました。
ちかごろ体罰が騒がれていますが、むかしの体罰は今の比ではありません。
古代スパルタでは、教育として食事を与えなかったりムチで打ったりしていました。
日本でも、無礼者は殺してよいという法律がありました(切り捨て御免)
宗教では、きびしい修行をしたり戒律を守らないと幸せになれないとされていました。
むかしの学生は、四当五落(五時間寝れば試験に落ちる)といって、睡眠時間をけずって勉強するのが良いとされていました。
社会人は私生活や健康を犠牲にして働くことが美徳だという風潮がありました。
つまり人類は、
「そうやって苦しまないと幸せになれない(なぜならこの世は正負の法則でできているから)」と思いこんでいたのです。
しかし今はどうでしょうか?
むかしのようなきびしい身分制度や上下関係がなくても、別に困ったことはありません。
スパルタ教育や切り捨てごめんがないからといって、別に困ったことはありません。
わたしは滝行や断食をしたことはありませんが、お坊さんより不幸だとは思えません。
いまの学生は、睡眠をけずるよりも、ちゃんと寝たほうが勉強効率がよいと言われています。
社会では、私生活や健康を犠牲にしてまで働くという風潮はめっきり影をひそめました。
そのような人は、むしろ「どうなの?」と思われるくらいです。

つまり「苦しまないと幸せになれない」というのは、人類の大いなるカン違いだということです。

納税日本一の斎藤一人さんも、
「良いことのあとにはもっと良いことがある」
「今日がどんないい日でも、明日には勝てない」
とおっしゃっています。
これは気やすめでもなんでもなく、まぎれもない真実です。

ただ“人生楽ありゃ苦もあるさ”のシステムに納得している方は、“人生楽ありゃ苦もあるさの世界”に住むことになります。
この世は自分の納得のできるシステムになるからです。

わたしが一年365日しあわせなのは、心がタフだからという面もあります。
人が不幸に感じることでも不幸に感じないからという面もあります。
しかし、それだけではありません。
正負の法則より、納得の法則のほうを優先すると、現実に不幸なことがほとんど起こらなくなります。
客観的に見ても、「わたしはなんて運がいいんだ!」と思うことばかりです。

たしかに正負の法則は存在します。
だからといって“幸せとのあとには不幸がくる”ということにはならないと思います。
正負の法則とは“バランスの法則 + リズムの法則”のことです。
それなら“平穏”と“超幸せ”でバランスをとってもいいと思います。
“幸せ”と“超幸せ”でリズムをとってもいいと思います。
“幸せのあとには不幸じゃなくて超幸せがくる”でもいいはずです。
実際、わたしはそのような人生をおくっています。

また、この世には慣性の法則があります。
これは“余計な力をくわえないかぎり、同じ状態は永遠につづく”という法則です。
月が落ちることなく地球のまわりをまわっているのは慣性の法則があるからです。
宇宙にはたくさんの法則があるのに、わざわざ正負の法則だけを人生にあてはめることはありません。
慣性の法則をあてはめて、
“余計な力(ネガティブな波動)をくわえないかぎり、幸せは永遠につづく”
と考えてもいいはずです。
その証拠に、“神の愛”には正負の法則があてはまりません。
神の愛は永遠不滅です。

この説明を読んで“納得”された方は、今日からでも“人生楽しかありゃしない”になってしまうでしょう♪



●納得の法則=キャラクターの法則

納得の法則は、いわばキャラクターの法則です。
私はネガティブになりそうなとき、すかさず人の幸せを願います。
神に感謝し、愛のことばで心を満たします。
なぜなら、そのようなキャラが不幸になるストーリーは想像(納得)できないからです。
そのようなキャラに天罰をくだす神は想像(納得)できないからです。

私がいつも幸せなのは、きびしい修行をしたからでも、徳が満ちているからでもありません。
「私のようなキャラが不幸になるはずがない」と、自分で納得しているからです。
「こんなキャラは、ドラマのなかでは絶対しあわせになるよね」と、自分で納得しているからです。
ただそれだけです。

もしかしたら、「そんなキャラになるのは無理」と思われたかもしれません。
しかしそんなことはありません。
なぜなら神様は「ムリしろ!」なんて言わないからです。
人に無理じいする神様なんて、納得できませんよね。
だからそんな神様は存在しません。
納得できる神様とは、
“その人のできる範囲で、精一杯のことをしていれば、OKをくれる神様”
だと思います。
だからこの世は、そのような神様に支配されています。

しかし、人は頭っから
「わたしにはムリだ! できない!」
と、思いこむクセがあります。
だから、たいていのばあい、できることすらやっていません。
そして、そんな自分に納得がいかないので、罰(のようなもの)が降りかかってきてしまいます。

わたしたちは自分でハードルを上げすぎなのです。
もしくは“やる or やらない”と、0か100かで考えてしまっているのです。
それさえやめれば人生は案外カンタンです。
とにかく「わたしにはムリっ! やらないっ!」と丸投げせずに、“ムリなくできること”をちょっとやることが肝心です。
できる範囲までハードルを下げることが大切です。

しかし、ハードルを下げすぎると、
「ムリはいけない…、ムリはいけない…、がんばりすぎはよくない……」
と、はれ物にさわるような心境になってしまい、いつもビクビクオドオドの“情けないキャラ”になってしまいます。
もしくは、
「あれもムリ…これもムリ…ああ無理無理……」
というように“消極的なダメキャラ”になってしまいます。
そうすると、そのキャラにふさわしいストーリーが展開されることになります。

わたしはそうならないように、
「とりあえず、できるとこまでやってみよう!」
「勇気勇気!」
「わたしはできる!」
などのセリフで、勇気あるキャラを演じています。
そうすると、そのキャラにふさわしいワクワクするようなストーリーが展開されることになります。

また、できないことをムリにやろうとするのではなく、知恵をしぼって“別のやり方”を考えることも大事です。
この世は謎解きゲームです。
正攻法で真正面からガンガンつっこむのではなく、頭をひねって裏をかくことが必要です。
そうすればムリすることなく、ラクにやりたいことがやれたりします。

たとえばわたしのばあい、ウォーキングしたくてもなかなかヤル気がでないことがあります。
本当に休みが必要なときは「今日は無理せず休もう」と思うことで、心がおだやかになります。
しかし心が休まらず、“わたしは怠けている”と罪悪感にかられるときは、たいがい第3の道が用意されています。
つまり、無理にウォーキングするでもなく、まったくウォーキングしないのでもない、第3の道があるのです(弁証法ですね)
ここで謎解きゲームのはじまりです。
「なにか良い方法があるはずだ」
と思い、ちょっと思考をめぐらせると、
「あ、そうだ。前から必要だった○○を探しに行こう。
 あちこち店をまわって、いちばん安いものをさがそう
 そうすれば、楽しみながらウォーキングできるぞ♪」
…と、ラクに楽しく目的を実行できるアイデアがうかんできます。

なかには、どうしてもムリがやめられない人、ムリせずがんばってるのにうまくいかない人もいると思います。
そのような人は、他人に無理じいしているばあいがあります。
他人に無理じいするとは、その人にイライラしたり、ネガティブな気持ちをもつことです。
人はだれもが神のあやつり人形です。
神のシナリオどおりに行動しています。
それなのに、人にネガティブな気持ちをもつということは、神を否定していることになります。
つまり無理なこと(理の無いこと)を要求しているのです。
※理(ことわり)とは、宇宙の根本原理のことです。

「あいつはまちがっている!……イライラ」
という人は、
「神のシナリオはまちがっている! 書き直しを要求する!」
と、無理なことを思っています。

「また私は失敗してしまった。なんてバカなんだ……イライラ」
という人は、
「わたしが失敗するはずない! 神のシナリオはまちがっている! 書き直しを要求する!」
と無理なことを思っています。

「人に無理じいするけど、自分は無理したくない」
…なんてわがままは、だれも納得できないと思います。
だからそのような人は、自分も神から無理なことを要求されるようになります。
そして、どうしても無理がやめられず、がんばってもうまくいかない……という理の無い事態におちいってしまうのです。

人は無意識のうちに、いろいろな無理じいしています。
「ものが壊れた……イライラ」
「うちの会社は労働基準法に違反している……イライラ」
「官僚のやることはダメだ……イライラ」
「予定がくるった……イライラ」
「電車がおくれた……イライラ」
「ケガをした……イライラ」
「またイライラしてしまった……イライラ」
などなど、これらはすべて神に対する無理じいになりますのでご注意ください。



●許せば許される

許す必要はないでも書いたように、人を許す必要はありません。
すべては自分がまいた種……、つまり自業自得(自作自演)だからです。
とはいえ、それが分かっていてもイライラしてしまうことがあると思います。

たとえば私がジャイアンに深く傷つけられたとします。
ジャイアンは魂が未熟で、人間的に幼いところがあります。
だから、彼が人を傷つけるのは当然のことです(動物が他者を傷つけるのと同じ原理です)
また、私が傷ついたのは、過去に誰かを傷つけたからであって、カルマが返ってきただけです(自業自得)
もしくは、人生ドラマを楽しみたいがために自分でしくんだシナリオです(自作自演)
このような意味から、私がジャイアンに怒るのは理の無いことになります。
しかしそれがわかっていても、怒ってしまうのが人間です。
それは反射機能※が備わっているから、当然のことでもあります。
しかしこの反射が長くつづくのは、つらいものがありますよね。

そんなあるとき、私はなにか失敗をして、人に嫌な思いをさせてしまいました。
私はもともと超がつくほど痛がりな性格です。
人に嫌な思いをさせたぶん自分も嫌な思いをすることになる(痛いめをみる)と思うと、怖くてしょうがありません。
しかし今は大丈夫です。
納得の法則で、“罰(カルマ)を受けなくても納得できるキャラ”になればいいのです。
しかし今回は、なかなか恐怖がおさまりません。
「どうか許してください。わざとじゃないんですぅ(TT)」
と心のそこから謝っているのに、なぜか天罰をくだされそうな気がします。
それもそのはずです。
なぜなら自分が、他人(ジャイアン)をゆるしていないからです。
自分ではゆるしているつもりでも、イライラしていれば、それはやはり許してないことになります。
“人をゆるさないのに自分だけゆるされたいキャラ”なんて、だれも納得できませんよね。
そのようなキャラには天罰がくだるストーリーがうかんできます。

わたしはこのことに気づいた瞬間、
“ジャイアンへの怒りの苦しみ” と “カルマを恐れる苦しみ” の2つを同時に消すことができました。
私は超痛がりな性格ですから、痛い目をみなくてすむなら、ジャンアンの一人や二人くらい、いくらでもゆるせてしまいます。
つまり、ジャイアンへの怒りがこみあげてきたら、
「ジャイアンをゆるさなければ、わたしの失敗もゆるされず、痛いめをみることになるぞ!」
と、自分の恐怖心をあおるのです(笑)
そうすれば、
「ゆるします、ゆるします\(◎o◎)/」
と、ソッコーでジャイアンをゆるすことができます。
※あくまでわたしのばあいです^^;。
わたしはうつ病になるほどの“痛がり”という弱点のおかげで、怒り恐怖を克服できています。
災い転じて福となすですね…

これを波動でみれば、“怒り”と“恐れ”、2つ波動をぶつけて相殺しているといえます(逆位の波動
こうすれば、ジャイアンへの怒りと、カルマへの恐れを同時に消すことができます。
ひいてはジャイアンをゆるせない自分、失敗してしまった自分をもゆるすことができます。
ひいては自分のつくったカルマをもゆるすことができます。
つまり“カルマは返ってこない”と、納得できたということです。

怒りがこみあげてきたとき、自分のあやまちを思いだして「許せば許される」と唱えてみてください。
そうすれば、カルマが免除されると同時に、怒りをもなくすことができます。

※逆位の波動はかならずしもポジティブな波動とネガティブな波動をぶつける必要はありません。
ばあいによってはネガティブな波動どうしでも相殺できるばあいがあります。
わたしは、怒り・嫉妬・自己嫌悪・不誠実などの感情におそわれたとき、
「そんなことをしていたら、悪いカルマを引き寄せることになるぞ!」
と“恐れ”の波動を起こして相殺することがあります。

もちろん、ポジティブな波動で消すに越したことはありません。
しかしそれでも効かないばあい、解毒剤として“恐れ”をつかうのはアリだと思います。
これは不動明王と同じ原理です。
“毒をもって毒を制す”ですね。



●法則に縛られない

この世にはカルマの法則や、正負の法則などさまざまな法則があります。
だからこそ、宇宙は安心で平等なのです。
しかしその反面、
「悪いカルマが…」「良いことの後には悪いことが…」
などと法則にしばられ、苦しむこともしばしばです。

法則は人生ゲームを楽しむための道具にすぎません。
それなのに法則によって苦しんでいては本末転倒です。
本来の目的を忘れてしまっています。

たとえば、許せば許されるの説明を読んで
「恐怖心をあおったりしたら、引きよせの法則で恐怖を引きよせるんじゃ…」
と思った人は、引き寄せの法則にしばられているといえます。
つまり、納得の法則よりも引き寄せの法則を優先しているのです。

神(=自分)は法則をつくる側です。
だから法則にしばられる必要はありません。
どんな法則でも、自分の“納得”のできるようにつくり変えればよいのです。
これが納得の法則です。
それをせず、与えられた法則にしばられて苦しむのは、自分が神だということを忘れているからです。
その意味では宗教や占いの教えにしばられて苦しむ必要もまったくありません。
自分の納得のいくように、どんどん書きかえればよいのです。
否、書きかえなければなりません。
人はつねに進化しつづけるものだからです。

このブログの内容も、絶対の真実というわけではありません。
より納得のいく考えが見つかれば、そちらが真実に近くなります。
だからブログの内容にしばられて苦しむことはありません。
自分の納得のいくように、どんどん修正してください。
そして、新たにみつけたその真実を、ぜひみんなに教えてあげてください。
そうすることによって、地球はますます天国に近づいていきます。


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多世界解釈

2013.08.10.11:30

以前、量子力学について書かせていただきました。
量子力学は20世紀になってできた新しい学問です。
量子力学ができるまえの力学を、古典力学といいます。
古典力学とは、私たちが普通にイメージする物理法則のことです。
古典力学では、モノを1コ2コとかぞえられる“形のあるもの”として考えます。
しかし時代が進むにつれ、原子などのミクロなものは古典力学では計算できないことが分かってきました。
そこで、ミクロなものを“形のあるもの”ではなく、“形のない波動”だと仮定すると、うまく計算できることがわかりました。
うしてうまれたのが量子力学です。

前回に説明したように、量子力学には“不確定性原理”というものがあります。
カンタンにいえば“量子を正確に観測することはできない”という原理です。

ものを観測するには、ものに波動をあてる必要があります。
目で石を見られるのは、石にあたった光(波動)が反射して、目を刺激するからです。
手で石をかんじられるのは、石にあてた皮膚の原子(波動)が跳ね返って、手のひらを刺激するからです。

石のような大きなものは、光や原子をあてても動きません。
しかし量子のような小さなものは、光や原子をあてると動きます。
量子が小さすぎて、はねとばされてしまうのです。
だから量子の正確な状態を知ることはできません。
「写真とるから止まって!」
といっても、フラッシュにびっくりして動いてしまうハエのようなものです。
動かれては、正確な状態を撮ることはできません。
なんだかよくわからない、ぼんやりした残像がうつるのみです。

では、はねとばさなくらい弱い光をあてたらどうでしょうか?
そうすると、今度は光(光子という粒)のすきまをすりぬけてしまいます。

つまり量子を正確に観測するのは、原理的に不可能なのです。

量子のことを100%正確に観測することはできませんが、確率でなら分かります。
波動関数という式をつかえば、“A点にいる確率は10%、B点にいる確率は50%”と確率で知ることはできます(確率解釈)

とはいえ、100%正確な状態がわからない以上、量子について断定的な意見をいうことはできません。
だから量子についての意見は“解釈”といいます。
解釈とは“自分なりの考え”という意味です。
量子について意見をいうときは、どんなエライ学者も、
「この意見は正しいかどうかわかりません。自分なりの考え(=解釈)なのでかんべんしてね」
というスタンスをとります。

そのなかでメジャーな解釈に“コペンハーゲン解釈(以下C解釈)”があります。
その内容は、

・人が観測していないとき、量子は波動になっている。
 ボヤ~ンとしているので、正確な状態はわからない。
 “A点にある量子、B点にある量子、C点にある量子”など、さまざまな状態が重ねあっている(重ね合わせ)

・人が観測したとたん、量子の波は一点に収縮して粒になる。
 ここではじめて「A点にある」と確定できる(波の収縮)

…などというものです。

量子を研究していくと、まずはじめにC解釈にたどりつきます。
C解釈は、量子研究の過程で、しぜんにでてくる考えかたです。
だからこのブログも、まずはじめにC解釈についてかかせていただきました(波動の法則
しかしC解釈は初期の考えかたですので、今みるといろいろ問題があります。



●問題1:波の収縮

C解釈では、
「人が観測したとたん、量子の波は収縮して粒になる。
 なぜそうなるのかわからないが、とにかくそうなる!(波の収縮)」
と考えます。
しかしながら、この考えに納得している学者はあまりいません。
多くは、
「なんで観測したら収縮するの? だるまさんが転んだじゃあるまいし」
と思っているようです。

科学では“例外”が少ないほど真実に近いとされています。
たとえば、
「Aさんはいつもふさぎこんでいる。だからうつ病だ」
という理論と、
「Bさんはいつもふさぎこんでいる(例外として土日祝日はのぞく)。だからうつ病だ」
という理論では、前者のほうが真実に近いのはもちろんです。
量子力学における“収縮”は、まさにこの例外にあたります。

今まで科学的に計算していたのに、いきなり
「人が観測したら粒になります!」
と魔法のような例外をもちだすC解釈に、多くの学者は納得できないでいます。



●問題2:焦り

科学的な面だけでなく、日常的な面でもC解釈には問題があります。

人生をC解釈で生きていると、
「未来にはいろいろな可能性がある。
 わたしが観測するまで、さまざまな可能性が重なりあっている。
 どんな未来になるかのは自分しだいだ。
 すべては自分の一挙手一投足にかかっている。
 ヘタをすればとんでもない未来になってしまう。
 ぜったいに失敗はゆるされない。
 やばい、手がふるえてきた…」
というふうに、焦りやプレッシャーを感じやすくなります。



●問題3:後悔

そして失敗などしようものなら、
「もしあのとき、○○しなければ失敗しなかったのに…」
「もしあのとき、あっちを選んでいれば上手くいっていたのに…」
と、過去を後悔しやすくなります。

C解釈では“未来のことは決まっておらず、いろんな可能性がありうる”と考えます。
いいかえると“過去には別の可能性もあった”ということになります。
だからいちいち過去をふりかえっては、
「もっとまじめに勉強していれば、もっと良い仕事につけてたかも…」
「もっと健康に気をつけていれば、病気にならずにすんだかも…」
「この人と結婚しなければ、もっと幸せな人生をおくれたかも…」
と“別の可能性”に思いをはせて後悔しやすくなるのです。

これらの後悔をまとめると
「過去にもっと人間力があったら、不幸にならずにすんだのに」
ということになります。
しかし人間力はだんだん成長していくものです。
はじめから人間力MAXなヒトは、ヒトではありません。
神です。
だからそもそも“後悔”という概念はありえないのです。
この点からも、C解釈に不備のあることがわかります。



●問題4:怒り

怒りという感情は、
「他の可能性もあった」
という考えからきています。

人のあやまちに怒りを感じるのは、
「コイツはあやまちをおかさない可能性もあった。
 もっとがんばっていれば、あやまちはおかさなかった」
と思っているからです。



●問題5:自己嫌悪

自己嫌悪も「他の可能性があった」という考えからきています。
失敗したとき自己嫌悪するのは、
「わたしは失敗しない可能性もあった。
 もっと気をつけていれば失敗しなかった」
と思っているからです。

不正をおかして自己嫌悪するのは、
「わたしは不正をおかさない可能性もあった。
 もっと人間力があれば不正はおかさなかった」
と思っているからです。



●問題6:無気力

たとえば、あなたが生徒会長に立候補したとします。
未来は決まっていないので、あなたにも会長になるチャンスはあります。
だからあなたは勉強、部活、ボランティアなど一生懸命がんばります。
良い結果が引き寄せられるように、一分一秒、こころ美しく生きていきます。

そして投票がおわりました。
結果発表は来週です。

ではこのような状況で、あなたはひきつづき美しい心でいられるでしょうか?
今までのような熱い思いで努力しつづけられるでしょうか?

C解釈ではむずかしいと思います。
なぜならもう投票用紙の中は、人に観測されており、結果は確定しているからです。
いまさら努力したって紙に書いてある内容は変わりません。
だからどうしても無気力になってしまいます。



●シュレディンガーの猫

量子力学の空想実験に、“シュレディンガーの猫”というものがあります。
まず「猫・毒ガスマシン・放射性元素」の3つを箱のなかに入れます。
外から観測できないように、箱にはフタをします。
放射性元素とは、粒子を放つ性質をもつ原子のことです。
原子が粒子を放射すると、毒ガスが出るしかけにします。
毒ガスが出るとネコは死にます。
原子が粒子を放射する確率は50%です。

C解釈ではこの状態を、
「箱をあけて観測するまで、“放射した状態”と“放射しない状態”が、それぞれ50%の確率で重なりあっている」
と考えます。
そうすると、“毒ガスが出てネコが死んだ状態”と“毒ガスが出ずネコが生きている状態”も、それぞれ50%で重なり合っていることになります。

…このような状態は、日常的な感覚では想像しづらいのではないでしょうか?
「死んだネコと、生きたネコが重なっている」といわれても、普通の人はピンとこないと思います。

また、このことをC解釈で説明すると、
“人観測がしたとたん、粒子が放射するかしないか、どちらかに決まる”
ということになります。
これを押しすすめて考えると、
“人が観測したとたん、ネコが死ぬか生きるかの、どちらかに決まる”
ということになります。
つまり、
“人の観測が、ネコの生死を決める”
…ということになります。
これはますます受け入れがたい感覚ではないではないでしょうか?

この実験を考えたシュレーディンガーは、これらの奇妙さを指摘して「だから量子力学はまちがっている」と言いたかったのです。



●問題5、ミクロとマクロ

このように、C解釈にはさまざまな問題があります。
ということは、C解釈のどこかに真理からズレたところがあるはずです。
それはC解釈が、

・量子(ミクロなもの)は波動力学であつかう
・観測者自身(マクロなもの)は古典力学であつかう

と分けている点にあると思います。

波動力学ではモノを“観測するまでは波動、観測すると粒になる”と考えます。
だから観測以前の量子はボヤ~ンとした波動のイメージになります。
ボヤ~ンとしているので、ひとつの状態に決められません。
いろんな可能性が重なっているようにみえます。

いっぽう、古典力学ではモノを“形のある粒”としてあつかいます。
だから観測者自身は、しっかり形のある物質的なイメージになります。
粒は、波が一点に収縮した状態ですよね。
つまり、観測者はすでにひとつの可能性(運命)に収縮(確定)していると考えられます。

まとめるとC解では、
「ひとつの運命に確定した観察者」が「いろいろな運命が重なった量子」を観測していると考えています。

しかしこれは不自然な考えではないでしょうか?
観測者はもとより、ネコ・月・宇宙など、どんなマクロなものでも、それはミクロな量子が集まったものです。
ミクロとマクロのさかいめはどこにあるのでしょうか?
どこまでがミクロで、どこからがマクロなのでしょうか?
この答えは科学では出ていません。
そもそもなぜ観測者と量子をちがう力学であつかうのでしょうか?
なんだか納得できません。
こんな区別をするから、“人が観測したとたん量子が収縮する”という、変な例外がとびだしてしまいます。
ひいては“観測がネコの生死を決める”という納得しづらい感覚におちいってしまいます。

そこでC解釈を見直し、
「ミクロとマクロ、どっちも波動力学でかんがえよう」
という言いだしたのが、エヴェレットという大学生でした。
そうしてうまれたのが多世界解釈です。



●多世界解釈

多世界解釈では、ミクロとマクロをわけません。
マクロなものにも波動力学をあてはめます。
観測者のみならず、宇宙全体にも波動力学をあてはめます。

普通に考えると、こちらのほうが納得できるのではないでしょうか?
ミクロもマクロも、同じ量子の集まりです。
波動力学、古典力学などと分けずに、同じ力学で計算するのが自然だと思います。

なぜC解釈では、2つをわけていたのかというと、それまでの“モノ=形がある”という固定観念にとらわれていたからです。
“波動と粒の、2つのすがたがある”なんて幽霊みたいな性質があるのは量子だけで、よもや学者自身にもそのような性質があるとは思ってもみなかったのです。
しかし、ひとりの学生が「自分自身にも量子力学をあてはめるべきなんじゃ…、ていうか宇宙全体にもあてはめるべきなんじゃ…」
と言いだしたところから、みんな(゚д゚)ハッ!となり、多世界解釈がうまれることになりました。

多世界解釈で考えると、C解釈のさまざまな問題が解決できます。

解決1:波の収束
解決5:ミクロとマクロ

C解釈では、観測者を古典力学であつかいます。
そうすると、観測者は形のある粒になります。
粒は、波動が一点に集まった状態です。
つまり観測者は、ひとつの可能性(運命)に確定していることになります。

しかし多世界解釈では、量子も観測者もひっくるめて量子力学で考えます。
だから観測者も量子と同じように、ボヤーンとした波動になります。
つまり、観測者もいろんな可能性が重なっていることになります。

ネコの例でいうと、
“ネコが死ぬ世界の観測者”と“猫が死なない世界の観測者”が、同時に存在するということです。
観測したとたん、ネコが生きたり死んだりするのではありません。
はじめから“ネコが死ぬ世界にいる観測者”と“ネコが死なない世界にいる観測者”が同時に存在しているのです。
それらはどちらの世界にも収縮することもありません。
2つの世界は永遠に両立しつづけます。

このように考えると“波の収縮”という例外が発生しなくなります。




解決2:焦りがなくなる

C解釈で生きていると、
「未来のことは何も決まっていない。
 だから自分の一挙手一投足にすべてがかかっている!
 ぜったいに失敗は許されない!」
と、焦りやプレッシャーを感じやすくなります。

いっぽう多世界解釈で生きていると、
「すべては初めから決まっている。
 だから焦ってもしょうがない。
 なるようになる」
と、つねに安心していられます。

かといって、
「すべて決まっているなら努力なんてムダだ。一日中寝ていよう」
ということにはなりません。
なぜなら自分がどの世界にいるかを知ることは不可能だからです。
それは“自分がどの世界にいるかは決まっていない”ということとイコールになります(運命論を理解する※Ctrl+F検索)



解決3:後悔がなくなる ★0%の法則★

多世界解釈では、どのような失敗も
「これはすでに決まっていたことだ」
「すべて神(自分)のシナリオどおりだ」
ということになります。
だから後悔という概念がありません。

「もっと勉強しておけばよかった」
「あんなこと言わなければよかった」
「健康に気をつけておけばよかった」
などととウジウジすることもありません。
なぜならそのような可能性は“0%”だからです。

わたしは過去を悔やみそうになったとき、
「わたしがこれ以外の行動をとっていた可能性は0%だ」
「すべて私のシナリオどおりだ(-ω☆)ニヤリ」
「わたしはシナリオどおりに芝居している人形にすぎない」
と思っています。
そうすると、すぐに苦しみがなくなります。
なぜならそれが真実だからだと思います。



解決4:怒りがなくなる

怒りは、
「コイツは不正をしない可能性もあった。
 もっとがんばっていれば不正をしなかったはずだ」
という思いからきています。

しかし多世界解釈では、そのような可能性は0%です。
だから怒りという概念は存在しません。
決まったプログラムどおりにうごくロボットに、怒りを感じる人はいないと思います。




解決5:自己嫌悪がなくなる

同じく自己嫌悪も、
「わたしは失敗しない可能性もあった。
 もっと賢ければ失敗しなかった」
というカン違いからきています。

多世界解釈ではそのような可能性は0%ですので、自己嫌悪という概念もありません。




解決6:ヤル気がでる

問題6のようなシチュエーションのばあい、C解釈ではヤル気が出ないと思います。
なぜなら投票用紙を人が見た時点で、結果が確定してしまうからです。
もう当落が決まっているのに、同じテンションでがんばることはむずかしいと思います。

しかし多世界解釈なら、ひきつづきヤル気全開でがんばることができます。
なぜなら自分が結果を認識するまで、当落どちら世界にいるかわからないからです。
それは“まだ結果は決まっていない”のとイコールになります。

量子は波動なので、ひとつの状態に特定できません。
しかし波動関数をつかえば、量子がどの世界にいるのか確率で知ることができます。
つまり、じぶん(=量子)がどの世界にいるのかも、確率的にあるていど知ることはできます。
たとえば、

・成績、人がらともに優れたあなたが、当選する世界にいる確率…80%
・成績のみ優れたあなたが、当選する世界にいる確率………………30%
・どちらも優れないあなたが、当選する世界にいる確率……………1%

…という感じです。
つまり、自分がその世界にふさわしいキャラクターになれば、その世界にいる確率が高くなるということです(キャラクターの法則
それは、自分がその世界にふさわしいと納得できる波動(思い)になれば、その世界にいる確率が高くなるということです(納得の法則



●C解釈の奥に多世界解釈がある

普通に考えると、C解釈はまちがいで、多世界解釈が正しいように思えます。
しかし世の中ではC解釈のほうがメジャーです。
その理由はいろいろありますが、一番はC解釈のほうが計算がカンタンだからだと思います。
力学的には、C解釈・多世界解釈、どちらで計算しても結果は同じです。
しかし多世界解釈で計算すると、計算がややこしくなります。
量子だけでなく、観察者にも波動関数をつかわなければならないからです。
だから多世界派の人も、実際の計算はC解釈でやることが多いようです。

これは日常生活にもあてはまります。
わたしは多世界派ですが、実生活では
「未来は決まっていない。自分しだいでどうにでもなる!」
と、単純にC解釈で考えることが多いです。

「宇宙は多世界構造になっている。
 しかし私がどの世界にいるのかはわからない。
 それはどの世界にいるのか決まっていないのとイコールである。
 つまり、未来は決まっておらず、自分しだいでどうにでもなるということだ!」
…と長々、多世界解釈でかんがえることは少ないです。

C解釈はまちがった理論ではありません(というか、この世にまちがいはありません)
ただ多世界解釈より考えが浅いだけです。

多世界解釈はC解釈よりも、視野が広く、考えが深いです。
ゆえに上のような、長く深い思考になってしまいます。

日常的につかうのはC解釈ですが、その奥には多世界解釈がある、ということを知っておくとよいと思います。

とはいえ、多世界解釈が最奥の解釈ではありません。
解釈は無限に深まっていきます。
そのうち、多世界解釈よりも、さらに納得できる解釈が出てくることでしょう。



●常識にとらわれない

多世界解釈を否定する人は。
「そんなSFみたいな世界は納得できない」
「そんなマンガみたいな解釈は納得できない」
と思っていることが多いようです。
つまり論理的な理由はなく、ただ感情的に否定しているということです。
それは地動説を否定した前世紀人のような思考回路だと思います。
むかしの人に、
「太陽が地球のまわりをまわっているんじゃない。地球が太陽のまわりをまわっているんだよ」
といっても、なかなか納得できないと思います。
普通の感覚では、太陽が地球のまわりをまわっているように思えるからです。
しかしそれは真実ではありませんよね。
つまり直感的に正しいと思うことが、必ずしも真実とは限らないのです。
逆にいえば、普通ではとうていありえない非常識なことが、実は真実だということも、ままあります(神はサプライズが大好きです)

「地球が太陽のまわりをまわっているなんてありえない」
「前世なんてありえない」
「多世界なんてありえない」
…など、常識や固定観念にとらわれず、心をつねにオープンにしておく姿勢が、謎解きゲーム※には必須です。




●解釈問題

量子を正確に観測をすることは不可能です。
だから量子について正確な意見をいうことはできません。
だから量子についての意見は“解釈の問題である”とされています。
これを解釈問題といいます。

この解釈問題は量子力学にかぎったことではありません。
この世はすべて解釈問題です。

「人生は苦行だ」
「人生は遊行だ」

どちらが正しいとはいえません。
ようは解釈しだいです。

「人生は修行だ。私たちは人間力を高めるために修行しているのだ」
「人生はエンターテイメントだ。私たちは人生を楽しむために生きているのだ」

どちらが真理ということもありません。
その人の解釈しだいです。

ちなみに私は以前まで「人生は修行だ」と解釈していました。
そうすることで、つらい状況をのりこえやすかったからです。
しかし今のわたしは、そのように解釈をすると、かえってつらくなります。
たしかに「人生は修行だ」と解釈することで、多少ラクになることはあると思います。
しかしそのような解釈では、“ウキウキ超ハッピー♪”にはなりにくいと思います。
なぜなら“修行”ということばには、“つらい”“くるしい”といったイメージがあるからです。
つまり「人生は修行だ」と解釈する限り、人生はつらいものでありつづけてしまうのです。

わたしはいま「人生はエンターテイメント(ゲーム・ドラマ・あそび)である」と解釈しています。
そうするとつらい状況でも、それを真に受けて深刻になることがありません。
すべて“あそび”になるからです。
だから何がおきてもゲーム感覚で楽しむことができます。
困難にぶちあたっても「このイベントをどうやってクリアしようか」とおもしろがることができます。

とはいえ、とんでもなくつらい状況では“エンターテイメント解釈”はむずかしいかもしれません(激痛、戦場など)
そのようなシチュエーションでは「人生は修行である」と解釈したほうがラクだと思います。

解釈は、状況・個性・魂レベルなどによって、臨機応変に変えていくことが大切です。



●パラレルワールドについて

多世界というと、パラレルワールドを連想するかもしれません。
しかし多世界とパラレルワールドはちがいます。

パラレルワールドでは、“ある時点で世界が分岐する”と考えます。
たとえば分かれ道にさしかかったとき
・右に進んだ自分
・左に進んだ自分
・直進した自分
というように、世界が分かれるということです。
分かれた世界は、それぞれ干渉することなく、並行して存在しつづけます。
そしてまた何かあるたびに、世界は無に分岐していきます。
つまりパラレルワールドは、C解釈と似たような発想です。
C解釈では、世界はひとつだけ残って、他の世界は消滅するという考えもあります。

多世界解釈では、世界は分岐も消滅もしません。
はじめからたくさんの世界が存在し、それらはたがいに干渉することなく、永遠に存在しつづけると考えます。

パラレルワールドはC解釈とおなじく、焦り・後悔・怒りなどに満ちた不安定な世界です。
住むなら多世界のほうをおすすめします。


※多世界をパラレルワールドのように“分岐する”と考えている人もいます。
 オリジナルの解釈は「多世界=分岐しない」「パラレルワールド(C解釈)=分岐する」です。


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プラグマティズム

2013.08.15.12:43

●解釈問題

昔の科学の主な目的は“真実の追求”でした。
「なぜ雨がふるのか」
「なぜ太陽はおちないのか」
「宇宙はどんな構造になっているのか」
などなど、真実を追い求めていました。
なぜなら昔は、
「研究をつみかさねれば、いつか真実にたどりつける」
と思われていたからです。
しかし近代では、不確定性原理、不完全性定理、カオス理論などの発見により、
「人がカンペキに真実を知ることは不可能だ」
という結論にいたっています。

そこで科学の主眼は“真実の追求”から“実用性の追求”へとシフトしていきました。
つまり“ニワトリが先かタマゴが先か”よりも“ニワトリに効率よくタマゴをうませる方法”を優先して追求するようになったのです。
このような発想をプラグマティズム(実用主義、道具主義)といいます。
科学や教義は、“実用的な道具”であるという考え方です。

いくら高度な理論を説いても、それが実際の役に立たなければ、あまり意味がありませんよね。
たとえば、“ニワトリが先だ”とわかったところで、実生活ではあまり役にたちません。
それよりも“ニワトリに効率よくタマゴをうませる方法”がわかったほうが実用性が高いです。

プラグマティズム的にいえば、科学や教義の目的は“人の役に立つこと=人を幸せにすること”です。
“真実の追求”は、そのための手段であって、目的ではありません。

“信じたらより幸せになれること”を真実にする」は、プラグマティズムから発想をえています。

量子力学の学説には、コペンハーゲン解釈や、多世界解釈などがありますが、いずれも末尾に“解釈”とあります。
それは、真実を知るのが不可能だからです。
“真実は解釈次第”というわけです。
それなら、“人をもっとも幸せにする解釈”を、“とりあえずの真実”にするのが賢明だと思います。



●真実の追求にとりつかれない

ともすれば人は本来の目的を忘れて“真実の追求”を第一に考えてしてしまいます。
例えば……
・答えの出ないことをグルグル考えてウツになる
・「私のほうが正しい。あっちが間違っている!」とグルグル考えて苦しむ。
・心ない方法で人のまちがいを指摘して、相手に嫌な思いをさせる

これらはすべて“真実の追求”を第一目的にした結果です。
そうならないよう、わたしはつねにプラグマティズムを意識しています。
たとえばブログを書いていると、いつのまにか真実の追求(正しい文章を書くこと、より上手い文章を書くことなど)に意識がいってしまいます。
そうすると、
“書いてあることは正しいが、実際にはあまり役に立たない”
“良いことは書いてあるが、”実行するのはむずかしい”
“りっぱなことが書いてありそうだが、難しくてよくわからない”
…ということになってしまいます(すでにそうなってるかもしれません……スミマセン)
しかし、プラグマティズムを意識すると、
“実生活で役にたつ内容”や“実際に理解しやすい表現”をひらめきやすくなります。

このブログには、わたしが実際に実行できていることしか書いていません。
机上の空論は書いていません。
自分が実践していて、かつ、他人が実行できそうなことを載せるようにしています
(それでも実行しにくいことがあると思います……スミマセン)

健康本や啓発本などを読んでいると、「著者はこれを自分で実行しているのだろうか?」と疑問に思うことがあります。
「出版社に依頼されて、ただ自分の頭のなかだけで考えた“机上の空論”を書いたのではないだろうか」と思うこともあります。

みなさんが人になにかを教えるときは、ぜひプラグマティズムで教えてあげてください(^^)



●まずしいプラグマティストにならない

プラグマティズム(実用主義)で気をつけなければならないことがあります。
それは“まずしいプラズティスト(実用主義者)”にならないことです。
“実用”という言葉にとらわれると、
「アニメやドラマなんて実用性のとぼしいものを見るのは時間のムダだ」
「遊んでいるヒマがあったら、もっと実用的なことをしたらどうだ」
「井戸端会議なんて時間のムダだ。そんなヒマがあったらもっと実用的なことしろ」
「デザインなんてどうでもいい。実用性が第一だ。使えたら何でもいいんだ」
「味なんてどうでもいい。口に入れば同じだ」
「芸術なんて金持ちの道楽だ。芸術品を買うなんて金のムダだ。実用品を買おう」
…という風に、“心のまずしい不幸キャラ”になってしまいます。

さきほど“実用性のとぼしい理論や研究は意味がない”と書きましたが、
「人はムダな知識が増えることに快感を感じる動物である」byアイザック アシモフ意訳
ということばにもあるように、人は知ることや考えることそのものに幸せを感じる性質があります。
その意味では、“実用性のとぼしい理論をぐるぐる考えること”や“役に立たない研究をチクチクやること”そのものに実用性があるのです。
それらの行為じたいが娯楽になり、幸福感をうみだすからです。
だから「実用的なことしかしちゃだめだ!」「ムダなことはしちゃだめだ!」と自分を縛ることはありあません。

なにごとにも、あそび(ムダ・余裕)は必要です。
それはユダヤの法則※でいうところの“22%”にあたります。

たしかに装飾や芸術はムダです。
それらがなくても生きてはいけます。
戦争や飢饉など、切羽つまって余裕のないときは、芸術などにかまってはおれません。
しかし人はいつもいつもそのような状況下には置かれていないはずです。
日本人に比べ、過酷な生活をおくっておられる原始民族の人々ですら、カラフルにおしゃれをする余裕があります。

装飾や芸術のないようすを“殺風景”と書きます。
そのような空間にいると、心が“殺伐”としてくるからです(どちらにも“殺”の文字が入りますね)

「武士は剣に強いだけでは能がない。
 歌心(あそびごころ)がなければ本物ではない。
 最後に勝つのはムダを楽しむ余裕のあるほうだ」
このような考えは、古来より“剣魂歌心(けんこんかしん)”という言葉に集約されています。

「鳴かぬなら殺してしまえホトトギス」の信長よりも、
「鳴かぬなら鳴くまでまとうホトトギス」の家康のほうが大成しそうだ……と、だれもが直感すると思います。


ムダは宇宙の法則です。
ムダは宇宙のシステムそのものです。
カンペキな神が、人という不完全な姿になって遊んでいること自体が大いなるムダです。
つまりムダを否定すると、宇宙そのものを否定してしまいます。
その意味で「人生にムダは一つもない」という言葉が理解できると思います。

以前のわたしは、まずしいプラグマティストでした。
だから、
「またムダなことをしてしまった」
「またムダ遣いしてしまった」
「ムダな遠まわりをしてしまった」
と、後悔&自己嫌悪しっぱなしでした。

「あそんでいるヒマがあったら、勉強しろ」
「寝てる時間がもったいない。起きてはたらけ」
「ボーっとしている時間があったら本を読め」
と、つねに自分をせきたてていました。

他者に対しても、
「役人のしごとはムダばかりだ」
「あのひとは余計なことばかりする」
「あの人はあそんでばかりで、ちっとも社会貢献していない」
と、イライラしてばかりでした。

社会悪やムダを無くすことは大事ですが、別にイライラすることはありません。
それこそ“ムダな行為”です。
ムダどころか波動汚染という“公害”です。
つまり、まずしいプラズティストは
「他人の目のなかにチリを見つけるが、自分の目のなかののハリには気がつかない(聖書意訳)」
という状態になっているのです。



●優れたプラグマティズムとは

さきほどプラグマティズムの例に“ニワトリに効率よくタマゴをうませること”をあげました。
しかしそのために、ニワトリをせまい鶏舎におしこめて薬漬けにするのは、優れたプラグマティズムとはいえません。
未熟なプラグマティズムです。
なぜならそのような行為は悪いカルマとなって、人間にかえってくるからです(だから私は放し飼いたまごしか買いません)

多くの家畜たちは、ペットにしたらありえないような非人道的な環境におかれています。
乳しぼりにジャマだからとシッポをきられ、一日中ヒモでつながれ、ろくに身動きもとれません。
これは未熟なプラグマティズムです。
わたしは基本、魚以外の肉や乳製品を食べませんが、買う必要のあるときは人道的に飼育された放牧のものを買います。
ちょっと高いですが、動物のきもちになってみると、まったく高いと感じません。

人はカンペキではありませんから、カンペキなプラグマティズムは不可能です。
しかしできるかぎり優れたプラグマティストになれるよう、こころがけることが大事だと思います。
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